教範ななめ読み3 「三合拳の構えは指定されている?」

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 現行の教範には三合拳の初っ端の解説で、

「但し、三合拳には始めから体構えがついているから!!!!!」

とかいういまいち分からない文章が付いていた。攻者一字構にしてる理由ちゃんと説明してやれよ?みたいな意味なのかとも思っていたが、やはりトータルではイミフであった。

んで第2版見ていて気が付きくましたわ。これは仁王拳の記述と対応していると。

第2版には、

仁王拳

「仁王拳演武の時は(中略)正対で結手構えにて、相対し、不意打ちの形式で、攻者が行動を開始すること」…(A)

三合拳

「但し、三合拳には始めから体構えがついているから」…(B)

とある。(B)は全く同じ文章で現在まで残ったが、(A)は消えた。

実際仁王拳の第2版の記載は、

  • 上受突(表、裏)
  • 打上突(表、裏)
  • 内受突(表、裏)
てな感じであり、対して三合拳は、
  • 拂受蹴(攻、一字構 守、一字構 開構で対す)
  • 下段返(攻、一字構 守、一字構 開構で対す)
  • 中段返(攻、一字構 守、待氣構 開構で対す)
てな具合で、仁王拳は確かに指定がなく、三合拳は構えが指定されている。

うーん、仁王拳の方を削除したときに三合拳の方もなんとかすべきだったね。。まぁ教範てこんなのめっちゃ多いから。

仁王拳が結手からというのはちょっと面白い。時代を感じる。御存知の通り現在は仁王拳も中段構や一字構が指定されているから、(B)の意味がわからなくなっていたと。

だが少年部科目表で、結手ではないものの正対構から始めるというのは歴史的に見ても根拠があったのだなと嬉しくなります。
古参から、昔は正対構からやってたというのは聞いたことがあるので、裏付けが得られてよかった。


教範ななめ読み2 抜身技

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 三鼎三法二五形の抜身法てやつ。いまいち矢筈以外は認知度が低いあれ。

錣とか草陰、吊鐘とかは世間話で聞いたことがある人も多いと思うけど、これらは抜身という科目だったのか…という気持ちでいっぱいです。


矢筈抜身(初版と第2版)
羽交抜身(初版と第2版)
袈裟抜身(初版と第2版)
風鈴抜身(初版と第2版)/風鈴攻抜身(79)
錣抜身(初版と第2版)/錣攻抜身(79)
甲攻抜身(初版と第2版)
佛骨抜身(初版と第2版)
吊鐘抜身(第2版)/鐘攻抜身(初版と79)
草陰抜身(第2版)/草陰攻抜身(79)
玉骨抜身(第2版)
両合抜身(初版と第2版)/両合攻抜身(79)
独鈷抜身(初版と第2版)/独鈷攻抜身(79)
三陰交攻抜身(79)
膝当抜身(初版)
足抜身(初版と第2版)、現在は龍王拳

初版は12技、第2版は13技が具体的に掲載。
膝当抜身は初版にのみある。


79年版では、掲載されている五段科目表に記載がある。ただし草陰攻抜身と三陰交攻抜身に関してはー、
五段試験科目には厳密にはなく、草陰攻と三陰交攻がある。

直後の「五段科目(除演武形)」には草陰攻抜身と三陰交攻抜身があるので、一連の抜身法の掲載順からして、これはおそらく五段科目表側の記載が誤記で、抜身表記が抜けているだけだと思う。教範ではよくあることです。
五段科目表の草陰攻と三陰交攻は、圧法科目ではなく抜身科目と考えるのが無難ではないかな。

教範ななめ読み1 段蹴、龍の形、寄抜の蹴

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段蹴

蹴り方による名称において、ピンクの副読本から2019年の読本に至るまで二段蹴となっているではないか…

教範30から教範79に至るまで一貫して段蹴という記載であるし、二回・三回蹴れとも書かれている。どうして二段蹴と記載されるようになったのだろう?


龍の形

教範79にある龍の形の記載だけど…(五段科目表)
>>竜の形単演(逆小手以外とす)
て書いてありまして。逆小手以外も龍の形と呼んでいることになる。

てかむしろここ以外に龍の形の記載はなく。もちろん他の単演が入っている単独基本法形に龍の方は入っていません。どこにも存在しない。大会などの技術組織図でたまに単独基本法形の中に天地拳や義和拳と並んで龍の形が記載されている場合があるけど、厳密には龍の形は単独基本法形ではなさそうです。
龍王拳か龍華拳あたりの、なんか単演やってみー的な逆小手限定ではないのを指示する言葉の響きだったのかも知れない。

ただし現在は読本で「龍の形、逆小手単演をする。」ときっちり指定されているので、現在では間違いなく逆小手のことです。ただしくどいけど79年版教範にはそのような記載はありません。


寄抜の蹴

第2版の寄抜の項目には、攻者は両手で掴んで、
  1. 鈎手
  2. 抜き(右)
  3. 裏拳(右)
  4. 中段突(右)
  5. 抜き(左)
  6. 上段突(左)
  7. 中段突(右)
  8. 三日月蹴(右)
  9. 開き下がって一字構
てな感じで書かれている。あまりいまはされないが現在教範でも両手寄抜は後半の蹴は書いてあるけど…これはかつて三日月蹴指定されていたものなのか。
いや、現在は指定が外れているから三日月蹴ではないとも言えるが、がしかし!!! 写真の開祖は確かに上段を蹴ってますな。
現行でも、三日月蹴なのか否か。


メモしとかないと自分でも忘れるので、今後メモ代わりにブログを書こうと思う。

佐藤一斎 塾規三条

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ありがとうGemini!! 

『言志四録』の佐藤一斎。


塾規三条(佐藤一斎) 「俗間梵余」より

1. 原文

立志

諸友学問心掛けられ候趣意は、第一倫理を弁え、君子に成るべきためにて候。ここに志なき輩は、仮令(たとえ)万巻の書を読破候ても、学問心掛け候とは申がたく候。曲芸小技に至るまで、志なくして成就する事あたわず候。況て(いわんや)倫理大学問ウカト出来候義決して無之候(これなくそうろう)。其志さえ立候えば、書籍読み候事も、此志の内にこれあり候。誠に入学第一の義にて、かりそめに思われ間敷(まじく)候事。

励行

学者日用の間、逢う所触る所、朝昼暮夜行を離れ候事これなく候。兎(う)につき角につき能(よ)く誠実に心を尽し、軽薄浮躁の態なき様次に心掛けらるべき事に候。朋友会合の際は言語の上尤も(もっとも)緊要にて候。朋友は互に益を求め仁を輔(たす)くる為に候。然るに無益の雑話に時を費やさば、益なくして損あるべし。雑話の上より自然と不遜にもなり、争端を起こす事にも及び候。箇様(かよう)の義一切無之(これなき)様に心掛けられべく候。且つ少者は長者を敬し、長者は少者を愛すべし。仮令(たとえ)少者たりとも業の勝れたるものは、業の先輩なれば、不敬なき様に相談あるべし。先輩たる者も其長を挟(さしはさ)み、後進を軽侮すれば、やはり長者の徳なきゆえに、後輩にかわる事これあるまじく候。大抵朋友の義は兄弟に等し。其親愛の心より切磋あるべく候事。

遊芸

文学の事は、経説たりとも芸に属すべし。学問中の一事にて候。厳に課程を立て、其間に優遊涵泳(ゆうゆうかんえい)すべき事尤(もっとも)もに候。もし実行なくして読書作文のみに流れ候ては、何程経説に委(くわ)しく、諸子百家に渉り、詩文を巧に致し候ても、技芸にかわる事これなく候。書籍を離れ候ては其余常人に等しかるべし。却て世人より譏(そしり)を招く事数多これあり候。然れば実行ありての読書にて候。凡そ先輩に疑を質す。生きたる書を読むに同じ。書を読む事は、死したる先輩より訓(おしえ)を受ける也。されば経義を講明するに当りては、先輩老人に対し、まのあたり質義する心に成り、己を虚(むな)くし、其語を身に引当てて沈潜すべし。軽卒躁妄(けいそつそうもう)なるべからず。能(よ)くかくの如くなれば、読書も亦実行の一にて候。以上。

三条の約、諸友ともに確守いたすべき候。背馳(はいち)これなきように心掛けられ、尤(もっとも)に候事。


2. 現代語訳(現代文書き下し)

一、 立志(志を立てること)

皆さんが学問に心を志す本当の意味は、第一に人の踏むべき道(倫理)をわきまえ、立派な人格者(君子)になるためです。ここに志のない者は、たとえ万巻の書物を読破したとしても、学問を志しているとは言えません。芸事やちょっとした技能でさえ、志がなければ成し遂げることはできないのです。

ましてや、人間の生き方という大きな学問が、うっかりいい加減にできるわけが決してありません。その志さえしっかり立っていれば、書物を読むという行為も自然とその志の中に含まれてくるものです。

これこそがまさに、学問に入るための第一の基本であり、決してかりそめ(おろそか)に考えてはならないことです。


二、 励行(実践に努めること)

学ぶ者が日々生活する中で、目にすること、触れること、そして朝・昼・夕・夜のいつでも、自らの行い(実践)から離れる瞬間はありません。どんな些細なことに対しても、しっかりと誠実に心を尽くし、軽はずみで浮ついた態度をとらないよう、常に心掛けるべきです。 

友人同士が集まる際は、特に言葉遣いが最も重要です。友人は互いに成長し合い、仁徳を助け合うためにいるものです。それなのに、中身のない雑談に時間を費やしてしまえば、利益がないばかりか損害を被ることになります。雑談を続けていると、自然と傲慢になり、争いのきっかけを作ることにもなってしまいます。このようなことが一切ないように心掛けねばなりません。

また、年若い者は年長者を敬い、年長者は年若い者を慈しむべきです。たとえ年少者であっても学業が優れている者は、学問における先輩なのですから、失礼のないように相談し合うのがよいでしょう。先輩である者も、自分が年上であることや経験を鼻にかけて後進を軽蔑するようでは、年長者としての徳がないということになり、後輩の手本となることはできません。

およそ友人同士の交わりは兄弟のようなものです。その親愛の心を持って、互いに切磋琢磨すべきです。


三、 遊芸(学芸に親しむこと)

文章や文学に関することは、たとえそれが聖賢の教え(経説)であっても、一つの「技芸」に属するものであり、学問全体の中の一部にすぎません。厳格にカリキュラム(課程)を立て、その合間に心ゆくまでゆったりと深く味わう(優遊涵泳する)ことがもっとも大切です。 

もし実践(実行)を伴わずに、ただ本を読み作文することだけに流されてしまっては、どれほど聖賢の教えに詳しく、あらゆる思想書(諸子百家)に通じ、巧みな詩文を作れたとしても、それは単なる技術や芸と変わりありません。本を離れてしまえば、それ以外の点では普通の人と変わらなくなってしまいます。それどころか、かえって世間の人々から非難を浴びる原因になることすら多くあります。

したがって、学問とは「実践があってこその読書」なのです。 およそ、先輩に疑問を正すことは、生きている書物を読むのと同じです。また、書物を読むということは、亡くなった先輩から教えを受けることと同じです。ですから、聖賢の教えを解き明かし学ぶにあたっては、目の前に先輩や老人がいると思って直接質問するような気持ちになり、心を虚しくして(先入観を捨てて)、その言葉を自分の身に引き当てて深く沈思黙考すべきです。軽はずみで落ち着きのない態度であってはなりません。

このようにしっかりと読書に向き合うことができれば、読書そのものもまた、立派な実践(実行)の一つとなるのです。以上。

これら三条の約束を、塾生の皆さんは共に固く守ってください。これに背くことのないよう心掛けることが、最も大切なことです。


参考 『言志四録1』 川上正光 著より



「運用法ルールてどう思いますか?」

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気心の知れた他流派の方から、

「運用法ルールてどう思いますか?」と聞かれることがある。(複数回)

私の運用法については「あり」なので、こんな時は「いいんじゃないですかね」て言う。

私が入門した頃は「少林寺拳法は乱捕りしない」流派でした。仕方ないので乱捕り研究会を作ったり、他流オフを開催たり、仲間内で他流試合に出たりしてみました。なので現在も横浜大六天道院は興味があればこれらはどうぞどうぞスタンスです。
関東圏なら月1くらいで空手のオープン大会があります。いろんな団体が主催してるのでそれぞれルールが異なりそれが楽しい。当時少林寺拳法に決まったルールがなかったので気兼ねなくいろいろ体験できて良かったと思っています。

運用法ルールは無難な 「ポイント制」

で少林寺拳法的に運用法ですが、格技にはいろいろルールがあって分類するとおおよそ3つ。

  1. KO制のルール
  2. ポイント制のルール
  3. (自由攻防しない)
1と2、2と3の間には大きな差があります。めちゃくちゃ大きな隔たりがあると思って下さい。現行の少林寺拳法はぎり2ということになる。

私の認識ではKO制はリスクが大きい。怒られかもだけどアマチュアはするべきでないとすら思っています、実践性落としてでも。ましてや「人づくりの団体」とか「拳法馬鹿になるな」みたいなこという少林寺拳法がKO制をする必要があるのかと思うので、ポイント制たる運用法は正しい選択だと思います。

運用法ルールは伝統空手のルールにかなり似ています。私の認識は伝統空手に似せた、パクったというよりは、現代人に必要なとこを考えるとどうしてもこうなると思います。これを何十年も前からやっている伝統空手がすげぇ、てことです。

伝統空手においても、伝統ルールができた時、また今でも賛否あると聞きます。でも長く続けてきたことで、伝統ルールは間違いなく空手の大事な一部になった。これから運用法はどうなるのでしょう。

余談ですが伝統空手はネットでは寸止め寸止めと馬鹿にされること多々ありますけど、高校大学を空手の推薦で進む人たち、いわゆる選手クラスはめちゃくちゃ強いです。見る力、判断力、対応力がまさにトップアスリートのそれ、一般とは一線を画す驚異的な強さです。彼らの突はコントロールして止めてるのであって、我々に5cm踏み込み撃ち抜くことは容易にできる人たちです。選手クラスは精錬されてます。


運用法ルールと少林寺拳法

前述のとおり、私が入門した時は運用法ルールは有りませんでした。団体として規定ルールは有ったほうがいい。無いと自由攻防しなくなります。多少ルールに疑問があったとしてもやらないよりは自由攻防したほうがいい。そういう現実的な落とし所が運用法ルールだと思います。これが「あり」という意味です。

格技のルールは実践性と安全性のせめぎ合いで、実践的なものは危険度が高く、安全すぎるものは嘘くさくなりがち。
武術諸派の歴史とは、常にこの実践性と安全性の模索と言ってもいいでしょう。実践性の薄い訓練は兵士に施しても仕方ない。でも安全性が低く訓練で怪我ばかりしていたら軍備として問題がある。まさに実践性と安全性は人類に常に抱える課題でしょう。
真剣はまずい木刀にしよう、いやいやまだ危ない袋竹刀だとかね、そうだ小手を打てるように分厚い手袋しようとかね。近代に入ってから徒手格闘はもっぱら顔面攻防ですね。グローブ、面の開発、寸止め、顔無し、いろんな模索が有り今でもそれは継続されています。みんなまだまだ、まだまだ探している。

そんな中、誰もが運用法ルールが少林寺拳法に最適なルール、技術を活かせるルールだとは思っていないと思います。私はそう思ってる、1つの落とし所だが、このルールが全てではない。

いろんなルールが有る中どれをやるべきなのか。どれが少林寺拳法の技術体系にマッチするのか?  私の考えは、1つのルールでは駄目ということです。幅広くやればいい。それは他流試合でいろんなルールでやったことからもそう感じています。
普段言っいるじゃないですか。勝ち負けに拘るなー、みたいな。そうです拘ってないんです大して(これも問題だが)。だからこそ色んなルールを楽しめる土壌が少林寺拳法にはあるとも言えるのです。

色んなルールを楽しめばいい

お勧めはね、それぞれのルールで最適な動きを模索する。これが楽しい。そのうち自分のやりたいこと、スタイル、ドクトリンが見えてきます。剛法だけじゃない柔法もしたい。いろんな可能性が少林寺拳法にはあるはずです。

我々少林寺拳法はもはや後進だと思わなければならい。どうやったら強くなれるのか、どうやったら強く突けるのか、どうやったら間を盗めるのか、そういうトライアンドエラーが他所で何十年も行われる中、我々は「乱捕りはするべきなのか?」という議論に費やしてしまった。何十年も遅れているという事実を直視して、どんどん取り組むしか無いのですよ、少林寺拳法は。

だから 運用法ルールはありです。やりましょう!!

少林寺拳法と「気」

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 武術て精神性と結びつきやすいのでスピリチュアルと相性がいい。これは本当です。そしてたまに聞かれる「気てあるの?」ですが、まぁあります。



漢和辞典で「気」調べると。

調べますとね。最低五項目くらいあります。項目も多いし、それぞれに統一感のない項目…「気」というのは色んな意味があってー、

あなたが部屋を片付けているとしましょう。これは使うもの使わないもの、秋に使うもの、あの時に使うもの、これは大事なもの、色々分けていきますね。その中でどこに入れておこう?というものが必ずありませんか。とりあえず分類できないものBOX、それの言葉版が「気」という概念です。なので曖昧で何かわからないもの、なのは必然なんです。

昔はわからなかったけど今はわかった事もたくさんあります。電気とか磁気とか、空気とか、いかにも「気」という言葉がついているものもあります。でも依然としてわからないものはあるし、分類しにくいものはあります。


横浜大六天道院では「気」という言葉は使いません。

解説するうえで使いません。上述の通り言葉の意味が広く、お互いに同じ概念ではない可能性が高い曖昧な表現となるため、解説には使いません。

ただ気をつけろとか気持ちよく投げるとか、そういう一般的な言葉の範囲では無理に避けることはないです。

後は意識だけ撃とっくみたいな表現はありますね。ストレート出す前にジャブを(物理的には出してないけど)意識の上では撃っておく。ちゃんと意識の上で出してると相手が釣られてストレートが当たりやすくなるみたいなのはあるので。打撃でも投げでも。「スタンド攻撃」と呼んでいます。




武術と気

ただ相手に触れるずに投げるとかはあります。状況が揃えば。状況を作るというのも戦術の内というのも確かです。ボクシングやサッカーの試合中継で聞いたことはありませんか? 「自分のペースで戦えていますね」というのを。

長い年月を掛けて門下生の感度を上げるというものもあれば、数時間のセミナーで醸成する人もいます。昔の2ちゃんで有名だったHさんは「三時間あれば誰にでも合氣を掛けられる」て言ってましたね。

自分の行っていることに一般性があるのかどうか、知らず知らずのうちに身内のみで有効な技術となっていないか。これはどの修練者も常に気を配るところではないかと思いますね。とりあえず他流派スパーにでも行くのが若い人はいいでしょう。

相手を術中にはめていくのも戦いの内ですよ。そういう中で、相手を上手く操るというのは確かに存在します。さらに言えばすごく短時間でそれを達成できる人もたまにいます。なんならプロの世界の勝負こそ、こういう繊細な部分が大事になってくるのかもしれません。なので私はできませんが、これも武術の内だと思いますよ。

これらは人間の仕組みなのかバグなのか、面白いのは確かです。でも多くの人には短期間でそれを用いるのは困難なので、試合とか襲い来る暴漢対策としていわゆる「気」は良い選択ではないと私は思います。

でも有るか無いかと言われればあります。

連続複数法形修練てやつ

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2022年12月頃のツイート。大事なことなので内部用にまとめておきます。誤字脱字の訂正と一部訂正しています。


https://twitter.com/Masspro_Dharma/status/1605458191692623873

 連続複数法形修練てのを最近本部が推してんだけど、横浜大六天道院はこれをずっとやっていて、むしろ個々の技をガチガチにしないようにしてるんです。その日だけのやり捨てやしな。
 やっぱ最新だったか。。いやワイは古典的な練習やと思ってやってんやけど。

これが開祖が言った、型でなく形、ていう法形演練とちゃうのかね。細かいこといいすぎたらそれが死ぬのよ。 禅理における不立文字教外別伝まんまんやな。


横浜大六天道院はこれをするための道院と行っても過言ではない。新設しないと所属してるだけではこういう修練を継続して行うことができないと判断したためです。
古典的と書いたのは、こういうのが、組演武、阿羅漢八系・那羅延五系がこのあたりの痕跡と思います。同じものではないですが、法形を続けて行うという修練は想定されていたと思います。何故か教範から消えたんですけど。


https://twitter.com/Masspro_Dharma/status/1605460973078183936

A→B→Cだけど、A16種→B16種→C8種とかバリエーション多くやるのが大事やで。A→B→Cでやるけど同じパターンはほぼない。
 法形1つでも左右表裏開対、順突逆突順受逆受、色々やれば何パターンもあるしね。
 ただ昇格試験には全く向かないので、そこんとこよろしく。試験的にはむしろ下手になるから。
内受突16種→上受突16種→流水蹴16種、みたいな。繋ぎとなる連反攻も自由なのでもっと増える。


完全な自由攻防(乱捕り)でも無い、完全な固定された組み合わせ(昨今の演武)でもない。緩やかな限定の中に適度なランダム要素、てのが大事よ。安全性と実践性を無難に担保できる。

 A→B→Cと法形つなげても固定しすぎると単に長い法形やるだけになっちゃうよ。それこれまでと対して変わらないよ。やりすてやりすて



https://twitter.com/Masspro_Dharma/status/1605471650098843648

あーそうだもう一つ大事なことがあったね。 
「乱捕りのような演武、演武のような乱捕り」…(A)
 少林寺拳法を駄目にした言葉ベスト3に入るこれ。
 連続複数法形修練の先には本来の(A)、これがあると思っているよ。連続複数法形修練は本当に大事な修練。

 (A)だけ聞くと、乱捕りを演武に近づける、演武を乱捕りに近づける、というニュアンスに取られやすい。これは異なるものを近づけるという発想。
 そうでなくて、法形という同根から乱捕りと演武の区別つかないようなものが生まれてくるていう意味だと思うよ。別々のものを無理に近づけるんじゃなくてさ。


 乱捕りと演武に区別がなく、法形と乱捕りにも区別がなく、法形と演武にも区別がない。ここまでが法形、ここからが乱捕り、演武ていうライン引きなんて無いんだよ。法形演練は。 
 何度も言うけど、細かい技やったらこれら全部死ぬ。曖昧さの中に可能性がある、それが法形演練だと思ってる。
字数で省略したけど、ついでに法形と基本にも区別がない。そういう広い範囲の法形修練が大事です。法形を狭くしない。細かくしない。

どんなに精妙な技でも、巧妙な技工凝らしても、部分の集合は全体にはならないんだな。むしろ遠ざかってしまう。言葉や文字に真実を捉える力が根源的にないからだよ。
 だから「技をきっちりやる」ほど堕落する、と私は考えているのです。

 宗教的になってきた。
「法形をきっちりやる」ような設計ではないのですよ、法形は。

https://twitter.com/Masspro_Dharma/status/1605473554555817984

まぁはっきり言って、連続複数法形修練は流行らないと思うわ。 
試験にも大会にも使わないからだよ。

拳士も他流スパオフに行こう

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スパーオフ会ていうやつ。昨今すごく多くて、関東圏なら5グループ以上あると思う。

だいたいルールは似てます。上級者から初心者まで楽しめる。勝負じゃないんです、お互い知らない人、知らないスタイルの人と乱捕りしがたいんです。




他流派とスパーリングができる時代

いい時代です。かつてイメージされたような、流派間の殺伐とした意地の張り合いなんてないと思います。

思えば2004年に2ちゃん武道板で他流派スパオフ開催したのが私にとってスパオフの最初でした。ネットの武道談義は必ず荒れる。そんな時は会って検証。そういう時期でいろんなオフ会が開催されていました。
ちなみに当時のオフはこういう流れでした。まず全員でフルコンルールを超軽く。ここでムキになる人がいないか運営側はチェック(まずいない)。その後キックルール、組技ありルールとかフルコンルールとか3-4つにグループ分け。参加者は3-40人はいたと思います。

ここ五年くらいでますます進んでたくさんのグループが開催しています。すごく参加しやすくなりました。だから興味があれば拳士の方にも参加してほしい。


第三の修練場になる

私イメージでは、第三の練習場になると考えています。1は自分の所属の通常練習、2は大会てか試合、そして第3が他流派スパオフです。

試合は試合で大事です。やはり明確に勝敗を競う意義は大きい。乱捕り稽古では得られない経験値が貯まります。他流派スパオフでも試合の代用にはなりません。関東圏には防具空手系をはじめオープン大会がたくさんあるのでおすすめです。

でも…試合は試合でいいのですが怪我もあるし、トーナメントで負けようものなら一日一戦ということもあります。大会出場は6000円とか1万円もザラなのに一試合ではちょっと悔しい。対して他流派スパオフは試合よりずっと安全だし、一日何回も繰り返せるので経験値が貯めやすいです。

また他流スパオフの特徴の一つに、色んなスタイルの人とスパーできるてのがあります。これがかなり楽しい。試合には大会ルールによってスタイルの最適解が生じます。スパオフでは自分のスタイルを通すのか、相手に合わせて変えるのか。勝ち負けじゃないからどんどん試せます。そういう中で自分の流派のスタイル、自分のスタイルがよりはっきり見えてくるんです。これは慣れた身内とだけ乱捕りやってるうちは分からない。これらをスパオフは1000円くらいで参加なので美味しすぎる。

安全面が高いので、今後武道団体の中にはこれまでの試合結果を出す、出場を目指すという目的の他に、「他流スパオフを楽しむ」というものを掲げるところが出るんじゃないかなと私は思いくす。
社会人にも参加しやすく、試せる場所がある。試合は敷居高いけどスパオフなら…という需要はあると思います。そういう風にメジャーな稽古の一つとしてもっと定着していくのではないかと。アスリートクラスならいざしらず、アマチュアにはすごく貴重な場となっていく、私そう感じています。


道院の外で試す

よく武道では教義の面で、道場で習ったことを道場の外でも活かそうみたいなのがあります。まあ確かに道場では品行方正だけど一歩外に出れば粗野になるのでは困りものです。

教義だけではなく技術面でも同様です。
自分の習っていること、やっていることに一般性があるのか。道場の中でのみ、同門に対してのみ有効な技術に陥っていないか、ピーキーな技術となっていないか、これを試す場としては他流試合とか他流派スパオフは有効です。

スパオフに参加する大きな利点は自分のショボさが分かることです。世の中に強い人がゴロゴロしてると毎回実感できます。
門下生に参加を促す理由はこれで、外で経験がないと強さの上限が私になってしまう。もっと強い、遥かに強い人とスパーしてもっと強くなってほしい。だから参加を促します。


横浜大六天道院の取り組み

参加してたら偉い、しない拳士は駄目だみたいな考えはないのですが、横浜大六天道院ではこういうオフ会にも関心があれば気負わず参加できる程度には、スパーを日常的にやっていきたい思っています。技術的に圧倒とかしなくていいんです。気負いしない程度にスパーに慣れていてほしい、その様に願っています。

一番良くないのが「もうちょっと強くなったら…」と尻込みするパターン。強くなるために参加するの!!逆です逆。
模試受けてはよ自分の立ち位置見たほうが良いですよ。勉強したら模試受けますじゃ遅いの!!

もちろん他流試合に挑戦するのもOKです。試合ルールに特化した練習がどこまでできるのかわからないですけど、できるだけ協力はします。門下生の努力の甲斐もあって、大会で優勝する拳士もでてきました。

負けてもいいの、ボコられてもいいの。出ると決めたときから練習への集中力がバッチリ高まりますからね。

横浜大六天道院ではスパーオフ会、試合、あとセミナーですね。これらには道院から補助金を出しますのでひとつお願いしてあります。
ぜひ習った内容を道院に還元してください。やったこと、もう一度二度復習したいよね? 復習を兼ねて皆に試しまくってください。これをお裾分け会と呼び、復習と還元を兼ねているイケてるシステムなのです。
いいものは共有!! 出し惜しみ、抱え込みしないのが少林寺拳法です。皆でうまくなろう!!

狭い少林寺拳法をするのではなく厚みのあるものをしましょう。


終わりに

もしかして、他流派と交流すると門下生の興味がそちらに移ってしまうんじゃ…引き抜かれちゃうんじゃ…そういう心配をする方もいるかもしれない。実際は自分とこますます好きになる方が多いんじゃないかな。私も他流派スパオフをして少林寺拳法がますます楽しく好きになりましたし。周囲にはそういうのが多いです。20人くらいはそういう拳士がいる。

技術が流出するんじゃ…多分大丈夫です!!!そもそもそんな時代じゃな 以下略


何が言いたいかというと、拳士の方にも参加してほしい。
怖い人はいません。どうしてもね、ネットで見ると上手い人がバチバチやってる風に見えますけど、そういうのばかりではないです。


こんな感じ。他にもあるかも。


探しても2004年の他流派スパオフの写真まったくないわ…多分当時はまだ写真取られるの嫌がったんだよな。先生にバレると面倒とかさ。いまはどんどんSNSに上がってるけど。

仕方ないのでイメージ写真は少林寺拳法のオフ会。

「道着脱いでいい?」「なんで?」

BY ライデン IN No comments

 初夏でも暑い

思えば中学生の頃も初夏ともなれば暑かった。でもまだ夏服期間じゃないので学ラン。汗疹とアトピーの私にはやんわり辛かった。
なぜ実際暑いのに脱いではいけないのか、とも考えずそんなもんだと思っていたあの頃。
ほどよく昨今は夏服の移行期間に関して、いくつかの報道も目にしたところです。


今も稽古のとき暑い。地区センターは冷暖房があるけど、まだクーラーは使えない。いや受付に頼むと弱めだけど入れてくれる、でもガンガンは効かせられない。施設の決まりで時期的なものがあるみたい。入れてくれるだけでもありがたい。


この「夏服」や「空調の時期」という決まりごと、これが厄介だ。決まりは大事だけど、大事だけど、、、やっぱり暑い。

「なんで!?」

そんななか、子供たちが毎回聞く。
「道衣脱いでもいい?」(汗だく)
「・・・着とけよ!!」(汗だく)
「なんで!?」(汗だく)
「・・・・」(汗だく)

私もう諦めた。脱いでいいことにしようと。
フルコン空手諸派では道着脱ぐことも多いのは知ってる。新宿スポセン行ったら道着着てない人なんていくらでもいる。道着がなくてもできるのよ。実際暑いし、あと動きにくいのよ、道着。


道衣を着るべき合理的な理由がない。すべて合理性が優先されるべきと思っているわけではないのだけど、やはりこの子供の「なんで?」にまったく答えがない。無さすぎる。

色々な考えがあると思います。でも暑いのも嫌だけど、何より決まりだからといって現状無視で着続けるこの不条理が嫌だ。
夏服も空調もルールは大事だと思うが、熱中症で倒れてまでのものではないのではないか。子供たちほんま毎回汗だくなんよ…。

だが帯は絞めてもらおう。帯さえちゃんと結ぶ習慣があればすぐ戻れるし。帯は自分たちで掴み取ったもんだから付けたがるしな。

何が言いたいかというと、暑い!!


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余談だけど私も禅門としての、「握りしめないこと」が頭に過りまくっているのです。
厳密な意味はあれだが、五箇条の御誓文、
「旧来の陋習を破り、天地あまつちの公道に基づくべし。」
明治の僧による、
「人伝の導師たる禅の師家がいたずら古い習慣にこだわってどうするのだ。世とともによろしく推移して、もって教化の実をあげん。」
このあたり。

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【追記】
我田引水で恐縮だけど、合気系でも脱ぐんだなと。
https://twitter.com/keidokan/status/1527022633937539072



横浜大六天道院は道着を着なくてもよい

BY ライデン IN , No comments

大きな声でも言えますが、うちの道院は一般拳士は道着を着なくてもいい道院です。いろいろご批判があるかと思いますが、うちはそういう方針なのです。
とはいえ、結局みんな7割はくらいは道衣を着ています。「なんでもいいよ」といっても道衣なのです。これは一つ面白い結果だと思っています。

私にとって道衣は格式ある正装ではなくて作業着という印象が強いからかもしれません。
必ずしも動きやすい服装ではなく、破れにくい汚れてもいい服という印象です。私にとって道衣が神聖なものかと言われれば全くNOです。
たとえ神聖なものであっても、本式と略式の切り替えができれればいいしできなければならないというのが私の考えです。本式しか教えないのは危険だとすら考えています。うちでは昇格孝試の時や入門式など節目のときに着ていればOKということにしています。
ただし道衣がないときは羅漢拳はしません。また清潔であることや危険ではない服装、運動に適した服装であることは求めています。

理由1 かさばるから

なぜ道衣でなくてもいいかと言うと、一番は荷物がかさばるからです。剣道ほどではないですが少林寺拳法セットもそれなりにかさばります(私は元剣道部です)。これをもって満員電車に乗らなければならない関東圏のことを考えるともっと軽くてよいウェアがあるのではないかと思います。こんなことで参座率が下がるならジャージでもいいと考えています。
また修練にいくつもりではなかったけど仕事が早く終わりそうなので…行けそうだからやっぱり行く、道衣か無いけど行く、みたいなのも想定しています。現代人は忙しいのです。

スポーツジムではウェアも靴もタオルも有料ですが貸してくれます。手ぶらで行って手ぶらで帰れます。これは大きなメリットです。通いやすいのです。環境が整っている。


理由2 動きやすいから

つぎに動きにくいからです。某フルコン団体の指導テキストを見ると、ミット打ちのときは道衣を脱ぐとあるように実際激しい運動にはもっと適した服装が現代にはあることは明白です。武道以外の格闘技を見ても必須アイテムではないのです。ラッシュガードを履いてみて下さい。はるかに動きやすいです。
なぜ大学生の拳士が太い道衣下を履くのかといば、伝統とかカッコイイからとかの理由もありましょうが一つは動きやすいからです。タイトな道衣は動きにくいのです。

少年部がオーバーヒートしかけていれば脱いでもいいというときがありますが、速攻脱ぎます。みんな動きにくいからといいます。子供は正直です。

理由3 楽しいから

理由はまだあります。スポーツには様々な楽しみがありますがそのうちの一つに「ウェアを選ぶ楽しみ」というものがあります。そんな中道衣はあまりに選択肢が乏しい。これはきつい言い方をすれば、少林寺拳法の魅力が乏しいと言ってもよいです。
山ガールを思い出してください。山ガールブームに浴した女性のすべてが登山が第一の目的だったでしょうか。山ガールのカッコがしたい、ウェアを買ったから山にも登ったという人も多かったのではないでしょうか。事実、山ガールファッションは素敵なものでした。


いや私達は武道であってもっと硬派なものだという人もいるかもしれません。でもよく思い出してください。胸に卍を付けていた旧制道衣のとき、黒帯にこだわった人は多いのではないでしょうか。
どこのメーカーの帯がいいから始まり、やれ艶がある朱子帯がいいとか、太い帯がいいとか、長さはこんなもんで、刺繍の文言・糸の色、いろいろみんな拘っていたように思います。世間から見たら同じただの黒い帯ですよ。見分けなんてつきません。でもみんな楽しんでいたように思います。

剣道なんて防具使うもんだから、すごくグレードに幅ありますよ。100万円の胴とかありますからね。空手着も3000円三点セットから始まり高価なものもあります。組手用の道衣、型用の道衣も別です。アメリカのテコンドーなんてとてもデザインの幅があります。もしかして道衣のデザインで道場を選ぶ人も多いのではないかな。けっこうな市場です。

もう一度いいましょう、スポーツにはウェアを選ぶという楽しみがあるのです。

理由4 技術的な経緯

実は以前から道着を着ない練習はたまにしていました。
護身の術であるというなら普段着でどれだけ動けるのかは大切な経験です。ピチピチのデニムでどれくらい蹴れるのか、ヒールを履いてどれくらい運歩できるのか。靴で蹴られると普段の受けが可能なのか。手袋したままで柔法捕れるのか。などなど、ネタは尽きないところ。道衣以外での修練も大切だと実感しています。
下らない様で地味に面白い。黒い手袋で暗闇パンチすると本当に見えないなど、ロマン溢れてるのです。
こんなこともあり、道衣は必須という思考が薄らいでいたのは正直なところ。

理由5 もう一つの理由

かさばって重くて動きにくい、選択肢も少ない。それが道衣です。
そして昨年もう一つの理由に対応できることに気が付きました。道衣は高価なのです。ある人が言ったんです。「お金がないので、入門直後から道衣じゃなくてもいいのは助かる。」いずれは買うつもりのようですが、入門の初期出費をずらしたい意図があるようでした。

これを情けないという人もいるかも知れませんが私は( ゚д゚)ハッ!としました。日本は貧しい国になりつつあるのです。若者の平均所得と貯蓄率は下がり続けています。そんななか少林寺拳法もお金のかかる側になりつつあるのかもしれません。


PS4なら毎月500円で300時間は遊べる時代ですよ。私はモンハンワールド(7800円)で1300時間くらい遊べました。完全無料のApexも11ヶ月で1500時間やっています。金のかからない楽しみはけっこう増えています。選択肢は少林寺拳法以外にもあるのです。

手軽なものが全て良いというつもりはありません。軽い気持ちで来てほしくないという意見もあるでしょう。それもいいでしょう。
ま、私は気軽に来てほしいほうですが。うちはチャラい道院なんです。カジュアル道院目指してますんで。荘厳な大聖堂に集うような形もいいけど、近所の無名の神社を訪れるように気軽に足を運んでほしい。私はそう願っています。

その他1:中学校の武道必修化のあたり

中学校で武道必修化をすることになり、日本武道館の9大武道のひとつである少林寺拳法もその対象です。少林寺拳法を行うにあたり大きな利点に、「用具がいらない」というものがあります。剣道のようにたくさんの用具を必要とせず、柔道着も畳もいらない。体育館と体操服のままで実施できる、これは導入する上で結構良いポイントでした。
体育館で行えるので学校側に格技場不要の設備投資なし、生徒側に新たな負担なし、はバカにはできないのです。お金の問題は大切です。
中学校の武道必修化では、道着がないことが利点となっています。

その他2:フランスの柔道のあたり

フランスでは柔道が人気です。競技人口は日本より多い。たくさんの民族の子供たちが柔道を学びに来ます。フランス柔道が教えている、「友情」「勇気」「誠意」「名誉」「謙虚」「尊敬」「自制」「礼儀」という 8 つのモラルコードが民族も宗教も異なる子供たちにとってかけがいのないものになっているからです。キリスト教の哲学にもイスラム教の哲学にも由来しない、だから誰もが学びやすい共通の規範としてうけているというのです。また社会的な期待も大きいといいます。
しかし移民の子どもたちは貧しい者が多く、道衣も買えないことがあるといいます。柔道は流石に上着だけでも柔道着でなくてはできないのです。だから連盟は貸し出しました。親たちの負担を減らすためにです。そうやって子どもたちに社会規範、共通の認識を教える機会を増やすために。
ここには柔道を使って教えたいこと、伝えたいことがあるように思います。柔道は「手段」なんですね。これは、人づくりによって国造りをしようとした、彼の人の考えに似ていませんか?





少林寺拳法はどうでしょうか。本当に、なにがなんでも、道衣がなければ金剛禅は学べないのでしょうか。道衣を着ないと信仰心が保てないのか!?開創期のように服装はバラバラ、でもみんな拳士という時代までいくことはないでしょうが。

道衣はかっこいい。道着を着てみたい。帯を締めてみたい。黒帯を目指したい。そういう声もあります。道衣の良さももちろん、 たくさんあります。
しかし今後、修練のウェアに関してはもっと柔軟な思考が社会から突きつけられるように思います。


追記

最近かなり見かけるようになった。資格別帯はいいと思いますよ。わたしは好みじゃないから買ってませんが。ぜひ色帯にも出してほしい。特に白帯で10色くらい展開してほしい。ピンクはマストな。
子供たちが初めて帯の締め方を学ぶ時、一方にカラーのラインがあれば帯のねじれとか自覚しやすい。締め方を学ぶときの実用面も期待できる。何より選ぶ楽しさがある。

参考

日本柔道とフランス柔道における安全制度に関する研究
A study on safety system in Japanese judo and French judo
https://www.waseda.jp/tokorozawa/kg/doc/50_ronbun/2017/5017A303_abs.pdf

古い技

BY ライデン IN , No comments

10年くらい前から自主練メンバーの某氏が最近総合かキックのジム行こうかなというので猛プッシュ。色々学んでほしい。彼は18歳の茶帯の頃から来ていた。すでに他流(よそ)の試合もよく出てたししっかり動ける。でもまだ20代だしガシガシしたいんだろう。やりまくったほうがいい。


少林寺拳法だけでは強くなれないの? なれません。とまでいうと怒られそうだけど色々学ぶのは当たり前では? 空手もキックも総合も、みんな幅広く学んでます。兼学は可能であれば推奨します、特に若いうちはね。テニス・ゴルフみたいな格技以外でもいいよ!! 案外w 少林寺拳法はイケてるので、自信を持って送り出します。
大丈夫、他をやれば他の良さや凄さを学ぶ、ほんで少林寺拳法の良さもまたわかります。まじよ。
ただ改良すべき点も見えるよ!!

古い技

本題はこっからなのだけど、彼が言う。
>柔術の先生がこれは古い技、古くなって使えない技て言ってたのが印象的でした笑
そうしたら拳法の技はどうなるんだと思いました。

キックとか総合てのはけっこう技術の変遷があり、雑に言えば流行り廃りがある。最近ならカーフキックが話題。変遷はかなり激しい。試合をする流派にはどこにでもある、しない流派にはない。はっきり言ってない。何十年でも停滞する。

後者の流派ではどういう事が起こるのかというと、過剰な過去への尊崇が起こる。別に過去の技術や人をディスるわけではないのだが、この尊崇のようなものを私は恐れる。
自分で確かめない。自分で歩いていない。自分で掴んでいない。これでは禅の良さを殺してしまう。

こんな時このジョークがお気に入り。

とある経済学会での一コマ
イギリス人:「その定理は、経験によって裏付けられているだろうか?」
ドイツ人 :「その定理は、いかなる基本定理から演繹されたものであるか?」
フランス人:「その定理を、フランス語で言ってください」
日本人  :「あなたの先生は有名ですか?」

最近ならコロナの報道で、ドコドコ大学の教授の発表とかいう報道見出しを見ると萎える。論文の中身ではなく大学名から来る。

武術も進歩しているということ

昔はよかった昔は強かったて文化でも経済でも武道でも聞くけど、少なくとも武術てけっこう進歩してます。
体操競技でかつてはオリンピックで必殺技の位置づけだったウルトラC難度も今は平凡なもの、であったりバレエでは年を追うごとに足が高く上がっていくなどもりもり進歩している模様。


武術だけは昔のほうが優れてるんだうか。ルールによる最適化は有るだろうけどそれでも、今の選手、強くなってると思いますよ。

そんな中、使える技、使えない技てのは必ず出てくる。
護身の術なので、対象はアスリートクラスではなくアマチュアなのでその変遷は鈍いかもしれない。でも無いとまで考えるのはおかしい。
少林寺拳法の科目には対組技を想定した項目がたくさんあるけど、肩打投とか投げ技の雄柔道はもう昔の肩車しないからね。ルールで禁止されてるので。別の入り方する。

総合のジムで学んだことを、ぜひ少林寺拳法に落としてほしいな。彼はちゃんと少林寺拳法に帰ってくる。教えてもらわないと!!


もって教化の実を挙げん

武専(2014)の修了論文https://dairokuten.yokohama/pdf/busen_paper2014.pdfには、曹洞宗の御和讃を引用しておいた。

星はめぐりて時うつり くらしのすべは変われども かわらぬ教え 今もなお 人に示してあらたなり

美しい響きなのでこっちにした。
でもホントは下のを載せたかったのよねん。論文には使いづらいけど勢いがある。詳しい出典は忘れたけど激動の明治あたりのどこかのお師家さんのお言葉。

人伝の導師たる禅の師家がいたずらに古い習慣に拘っていてどうする。
世とともによろしく推移して、もって教化の実を挙げん。




法形演練の設計(予)

BY ライデン IN , , No comments

 例えば若い学生さんと練習していて、「ローキックの守り方教えて下さい」みたいになったとして、じゃこんなかんじでホニャラホニャラして練習しましょうとなる。蹴られたらこう受けて返してね、となる。てな感じで進めるといい感じの実のある攻防練習になる。


なぜ法形演練がこの集中力でやれないのか?

そのノリその集中力で法形やったらすぐ強くなりそうやのに・・・

決まった攻撃に、決まった反撃する。という構造は一緒なのに、内受突しますよーてなるとこうはならない。なぜだ。法形演練の呪いなのか。開祖は「型ちゃうで、形やでぇ(意訳)」ていったのに、あれは何だつたのか。

法話の中で、「少林寺拳法は護身術なので習ったすぐ使える」とか「3ヶ月くらいすればー」みたいなのがあったと思うのだけど、現代の少林寺拳法からはそれは微塵も感じられない。


昔はもっと(いい意味で)雑にやってたんでは?

そんで内受突いうても、左右とか順逆とか細かいこと言わずどんどん混ぜてやってたんでは?自然と混ざるし、他使用得意不得意あってもいいので、とりあえず返せるようにする、とかね。


上のキックの動画、これ普段の少林寺拳法で再現したとすると。

対構になってー、入って蹴ってー、正確にここ蹴ってー、いや正確に、ここ以外蹴らないでー、こう受けて、いやここでこう受けてー、蹴ったら自由地脚下がりしてー退ってー、残心してー、あれよこれよこれもあれも

みたいになる。内受けやら運歩はうまくなってるかもだけど何故か強さは変わってないという妙。

そういうのも大事なんだけど。私は少林寺拳法の法形てあんまりそのように設計されていなてのではないかなと、考えてます。

詳しくは道院で聞いてね。




剣道から間合いの話

BY ライデン IN , , , No comments

改めて武道学会の剣道についての発表資料を見ていると、今日も夢とロマンが広がります。

元は決まり手の技術変遷を追った内容ですが、その中に「抜き技」と「返し技」の解説が簡単にあります。

抜き技

相手が出るタイミングで打ち込む。少林寺拳法的にはほぼ対の先

返し技

相手の攻撃を竹刀で受けてから攻撃。少林寺拳法的には後の先


ということです。
面白いのは間合いの記述があり、返し技のほうが近間だとしてあります。これは感覚的にはすごくわかりますし、改めて考えるととても面白い。


少林寺拳法と間合い

後の先で捕ろうと思えば、遠すぎるとしんどい。物理的に触れてるわけではないけど感覚的に相手に接しておかないしんどい。こっそり相手の行動を制限して相手の攻撃パターンを減らしておかないとなかなか対応できない。

対して、対の先は遠い間合いのほうが確かに気持ちやりやすい。遠いから相手がガッツリ入ってくる勢いあるところに合わせていく感じ。しっかり受けないでさっさっと反撃反撃。

まあこんなこと書くと達人みたいになってちょー偉そうだけど、私もそんな精度高くやれるわけではないです。何となくそういう傾向があるよね~くらい。もちろん例外はいくらでもあります。


返し技が増加している

剣道の話に戻ると、現代に近づくほど抜き技が減り返し技が顕著に増加している、としています。つまり一度受けてから返すパターンが増えているということです。剣道という一定のルールの中での話ですが、そのほうが有利だということが示唆されます。これは少林寺拳法にとってはありがたい知見です。

守主攻従は本当に技術的に有利なのか?これはいつも悩ましい問題です。
武術に限らず軍事などどこ見ても、自然界を見ても先手こそが有利なのではないか?まま、もちろんは少林寺拳法もあくまで後必勝(後手必勝ではありません)ですから、手を出してなくても先に捕ってるわけですけど。そう、上で言う「感覚的に触れている」て状態ですね。

戦争論のクラウゼビッツは、防御のほうが有利と言ってるようですがそれは現状を維持するならということですし、、、まぁこれについては長くなるので今日はここまで。
とりあえず剣道から、長く試合を続けていたら返し技が増えてるよん!!というのはなんとも嬉しい話じゃありませんか。

間合いの余談

少林寺拳法は基本は世間的な武術からして間合いは近い方だと私は思っていますので、後の先が好きな少林寺拳法はやっぱり近間なんだなぁとも思っちゃいます。
いや、少林寺拳法は遠いだろて意見もあるかと思いますが、伝統空手とか3mの間合い普通にシームレスに詰められますからね。体育館の端から端まで攻撃と足を止めずに出し続けられますからね。少林寺拳法はせいぜい1歩か2歩。守主攻従だからそういうもんです。
柔法とか五花拳にしても、適度に近くて(感覚的に)触れてるほうが良いですし、まぁ当然かなと。

当分、単演でも

BY ライデン IN , , No comments

こんなご時世ですし、当分単演をやることになるかなと思います。
少林寺拳法は組手主体を標榜してきたので、誰とも合わず孤独にたんたんと鍛錬するのは苦手なんだなと今回改めて感じますね。また自粛が来ないも限らないので、一人でも鍛錬できるように稽古していくことは大切ですね。

単演といえば天地拳とか義和拳とかあの辺りですが、嘘かホントか知らないのですが西の某所ではそれぞれの法形をやる前に単独でやってたとか聞いたことがありーの。たまたま開祖が思いつきでやったのか継続的にやってたのか謎です。

単演はたくさんある

例えば試験にも出る龍王拳第一系ですが、もちろん二系・三系もあるわけです。龍王拳は(今教範見るとw)27まであります。もちろん剛柔合わせればわんさかあります。あるにはあるんです、試験に出ないだけです。

試験にないからやらなくていいとか、公式なものがないからよくわからないからとかは拳法を狭くしてしまうので私は嫌いです。我々は科目を追いかけているわけではありません。求道しているのです。なければ創作すればいいんです。
同じ様に天地拳3-6の相対もいろんな先生が創意工夫でやってます。大事なことはそれらを覚え記録することではなく、自分でも考えて構築できるようになることだと思います。たとえそれが他人から見て変なものでもいい。自分で考えることに意味があります。横浜大六天道院ではどんなにレベルが高くても自ら出たもの以外は評価されません。下手くそでもレベルが低くてもよいです。自分で絞り出したことを尊びます。拳禅一如とはそういうものだと思います。

いいじゃん、どうせ試験でやるわけでもないんですし。公式だと言って回るわけでもなし。好き勝手やってくれよ!!!


流水蹴の単演 例

たとえば月曜日に例示してってもらった単演は、仁王拳第一ですね。まぁ流水蹴のことです。3つやってみました。その場で適当に考えてたものです。

左前から、

  1. 流水受
  2. 蹴り上げ
  3. 順足鈎足して右で回し蹴り
  4. 蜘蛛足か十字足で下がる。
  5. 右前から以下繰り返しておわり


左前から、

  1. 流水受
  2. 蹴り上げ
  3. 左足で足刀(段蹴腹でも顔でも膝でもどこでもいいよ)
  4. なんちゃら退り
あとなんだっけ。
左前から、
  1. 流水受
  2. 金的蹴
  3. 右で上段蹴り上げ
  4. 順退り
みたいな感じですね。


あと外受突でも
  1. 右手 外受
  2. 左手 中段突
  3. 右手で受けから段突
  4. 後ろ体重にしつつ、左手て打上受
  5. 左足で蹴(蹴種の指定はあえてしない)
これなんていかにも拳法ぽかった気がしまするぅぅ。


大事なことは、覚えない・サッサッと忘れる。言われたらそれなりにすぐできることを目指し、すぐ思いつくようになることを目指しています。乱捕りしてれば適当に思いつくでようになります。
それなりでいいんです。ものすごく良くできた単演である必要はなく、むしろ多少不自然でもいい。対応力つくんで(本当)、乱捕りにも役に立つかも?(知らない)
ひとつの動機づけとして、ドリルとしてサクサクやれば良い思います。

構成同じでも人によってタイミングは異なります。それも見ていて楽しいし、少林寺拳法を学ぶ人間はクリエイティブじゃなきゃね。


地区センターの体育室が取れたときは、また錫杖伝でもやろうかなと。錫杖伝はリーチが長い。嫌でも縦横3倍で9倍の面積、ついでにちょっと大きく取って10倍くらい徒手より空間を食う。これってちちょうどコロナ対応距離でないかな!!!


「風格のある演武」三崎敏夫

BY ライデン IN No comments

先日、「三崎先生のあの名文ちょうだい!!」と言われ。
また先日、道院修練中に演武の話関連で書こしでたこともあり、名文として名高い故三崎先生の文章をアップしておきます。某サイト用に15年くらい前にテキスト化したものです。昔テキスト化したものなので正誤あるかも。
昭和41年の文章です。「少林寺」「拳法」と称されているものは「少林寺拳法」のことです。 


「風格のある演武」三崎敏夫

新聞 『少林寺拳法』昭和41年1月10日  (20の1)

 (一)
 人の心程移り気なものはないあれを考えこれを考え常に散り易いものである。又今日程これが激しい時代はないであろう。
 これを修行することによって纏めるのが精神統一である。然らばどうしてこのうつり気な心を纏めるか。修行の方法には滝にうたれて思念するものや或は苦行するものその他楽行するものいろいろあるであろうが少林寺拳法程最高に適切なものは他にないであろう。それは心と肉体とが同時に修行できるからである。日本に於ける少林寺の名声は此の広く且つ深い精神内容と高度な技術これが今日の少林寺拳法を作り上げたのである。三祖僧粲大師も「動中の功は静中の功に百千倍する」と説かれている様に少林寺では此の精神統一を拳法という技によって錬磨する。幾千回幾万回錬りに錬り心の散らない一事集中の修行をするのである。これ程烈しいこれ程確かな人格修行はないと申してよかろう。
 我々は社会人である又すぐにも巣立って行かなければならない人達である。修行したことが即社会に亦日常の生活に役立つものでなければやっていることが大きな無駄である。社会が求めている人間になることが最も必要なことである。強くなることも大切なことの一つではあるが少林寺拳法に於てはこれは氷山の一角に過ぎない。社会人としての要素はこれだけであってはならない。
 正しい自己を確立することである。
 このことが理解された人の行う拳法は実に気品のあふれた拳法になる真に正しい立派な風格のある拳法を演錬したいものである。

(二)
 拳法は「礼に始まって礼に終る」と云われるが礼儀を離れて気品はない如何に乱捕だけに終始しても気品は生れないものである。然らば気品とはどんなものであるかと云われると容易に謂いあらわし難い気を花に譬(たと)うれば気品はその薫りのようなものではあるまいか気品は正しい心澄んだ気から自然に発する得もいわれぬ気高さにある三味の境地無念無想の境地に這りこんだ時ほど気品あるものはない。
 徒に勝敗に拘泥する時は品が悪くなる。私心邪念にとらわれて稽古に無理があるから自然に気品が添わないのである。そして相手を騙すことばかり覚えるものである。心も形も共に正しく互に相たすけるのでなければ真に正しい立派な拳気品のある風格をそなえた演武は出来ないものである。「心正しければ拳亦正し」というのも此の意味に外ならないのである。
 この気品のある拳法を修得する近道は先ず基本「かた」を充分にこなす様練習することである。即ち少林寺拳法の形は各種の技法を通じて霊肉一如自他共栄心形一致の妙境に達せしめんがための「みち」である。真剣なる組演武を見ていると本当に自分の心がすいこまれて行く様な気持になるものである。又真の形を修行して見ると乱げいこと異った特殊な境地が見つかり又拳法としての直接の目的以外に一種の芸術的感激さえ覚えてくるものである。想うに格斗技が出来上る以前にあっては心体手足の使用法はすこぶる幼稚であっていたずらに体力に任せて手を振り足を上げていたというに過ぎなかったであろう。これが必然的な要求の結果として心体手足を如何に使用すれば最も効果があるかということが考えられて遂にはその運用法を生ずるに至ったものである。現在使用されている形が成立される迄には祖師以来幾多の古人先輩が又名人といわれる人々が命を捨て骨身をけずり血をながして得た血と涙の結晶である。「前者の過ちは後者への試」労少なく功大ならしめる為に自然の理法に従った無駄の無い立派な形が出来上ったのである。勿論日本に於ける少林寺拳法は宗師家の労苦によって今日の様な高度なレベルになったことはいう迄もない。故に基本形を充分演錬せずして初心のうちより乱げいこのみに終始することは過ちの第一歩である。例えば土台や基礎の悪い所に家を建てるのと同様で砂地の上にどんな立派な材木を使い名工の手にかけて建ててもすぐ崩れてしまうが土台がしっかりしていれば少々古材を使って建ても曲らず崩れず立派に家は建つものである。形演練の時に注意しなければならないことは攻撃するものが正確でなければその形も不正確なくずれた無意味なものとなってくる。攻者と防者は自他共に一体とならなければ立派な形は生れない。一方が如何に上手であっても攻者と防者が別々の感じで動作をしては何にもならない。互に助け合い補足しあって形を演錬しなければ両者共に上達はしないものである。此の両者は一体となり打てば響き叫べば応ずる木霊の如く両者の心と心との間には目に見えない綱がたゆまずピーンと張られ一方の意志は以心伝心他方に通ずる様にならなければならない。攻者は突蹴を以て攻撃する場合に心の内で防禦側の構えを窺い何処かに隙はないかと心を配り防禦側の構えをよく見て遂に約束通り力を以て攻撃をする。防者は何処から攻撃の突蹴が来ても充分に防ぎ又反撃に応じられる様に準備して後攻撃して来た突蹴を防ぎ反撃する。形は約束に従って一定の形式と順序を踏むものであることは云う迄もない。が然しその他に隙あらば猛然と攻撃すべしそのうち自然と真の演武に近ずくことが出るものである。樗山子の「天狗芸術論」に「芸術は修錬を要す事和せず気和せざれば形従わず心と形と二つになって自在をなすこと能わず」といっている内に働くものが生気とぼしく形式的技術が巧妙と云うだけでは形を活用することは出来得ないのである。常に内に働くものが自由自在生気発らつとして活きた形でなくては乱捕にもいかすことは出来ないものである。(次号に続く)




新聞 『少林寺拳法』昭和41年4月1日 (20の2)

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 私は生来不器用ものである。特に文筆をとるなぞはおこがましい沙汰の限りである。自分が自分を一番よく知っているつもりである。編集者はそれを考えてくれずに何か書けかけと喧ましく云う。あまり逢う度に云われるので前号に風格のある演武と題して一筆書いたところが編集局は稿の終りに「次号に続く」と書きたしてあった。私はあわててかけあいに行ったが一向に聞き入れて呉れない仕方なく又筆をとらざるを得なくなった。今日此の頃ではこうしているうちに次第に多少ともなれて書けて来る様になるのかもしれないと思うようになった。最初私が拳法を始めた時にもそうであった。先輩の先生方がやっておられる様な見事な演武が私にも出来るのか思った。然し又出来れば素晴しいものだとも感じたものである。恐らくどの拳士諸君もそうであると思うが拳士の大多数は皆この演武のもつあやなる雰囲気と素晴しい技術に魅了されて入ったものが多いと思う。あの飛燕の様な早さ流れる様な美しさ剛快なうごき正に一服の名画を見る感じがするのである。
 がさて新しく入って練習を始めて見ると分るが自分の手や足自分の五体我が五体であるから自由自在に動かすことが出来る筈であると思うのになかなか思うようにはならないものである。円滑融通無礙玄如神速思いのままに演武することなどはどうして容易に出来るものではない。
 練習をしていると次第に自分の身体が我がものであって実は我がものでないのだと気がつくそして我がものとするまでにはかなりの時間がかかるものである。我が手足我が四肢五体でありながら修練工夫を積まなければ我が思いのままに動かぬと同様に我が心も亦容易に我が思いのままにはならないものである。人の一生はその人の心のあり方によって決まるといわれている。少林寺の教えの中には管長先生の示された大道がある。この道の中には宗教あり哲学あり倫理あり道徳あり宇宙及世界の動きがある。その中に又政治もあれば経済のうごきもある長上に対する道同輩に対する道後輩に対する道そして正しい力を得る拳法がある。こんな立派な修養道は他にその例を見ないものである。古代の仏像や壁画を見るとき道を悟る一手段としての体の運用を表わした仏像や壁画を見ることが出来る。中には武器を持ったもの迄ある.昔中国に古きを尋ねて新しきを知るという言葉があるようだがこの少林寺拳法はまさにその言葉の通りである。少林寺に於てはこの道を通じて正しい人間形成を又社会で役に立つ人々を送り出しているのである。本人にとってはプライドであり社会生活をする上に最も必要なことでもある。「力の伴わざる正義は無力なり正義の伴わざる力は暴力なり」昨年だったと思うがNHKの「世界の旅」に出た或印度の一家庭の中に主人が三年間お寺に入って修行するというのがあった。その間の留守をけなげに一人の娘が働いて家族全体を守るという場面があったが南方の仏教国に行くとこういうふうにして国民の大部分が修行するという日本の国もそうありたいものと思う。話か大分それたようであるがこのことは又稿を改めて述べて見たいと思う。


以上です。写真は該当記事に掲載されていたものです。
三崎先生とは多少のご縁があり初段時に一度だけ仁尾道院専有道場でお会いしたことがあります。先生と私の名前入り色紙をいただきまして、今でも大事なお宝です。色紙は専有道場に額に入れて置いてありますので御覧くださいませ。



50年史(第一部P.265)には明確に書いてあるのですけど、「風格のある演武」てのは少林寺拳法の風格のことではなく「自分の味がだせる風格ある演武を目指して」であります。
>やがて私は、基本を重視しながらも、派手だけではない何か、「風格ある演武」というものを追求するようになりました。その人の考え方や教養、人柄など、いろいろなものがにじみ出る「味」。それが演武に表現されていないとだめだ、と考えるようになったんです。
そうだよね、そうでなくちゃいかんよね。 だから私は下手な少林寺拳法が見たいんだ。

コンビネーションの緩急の話

BY ライデン IN No comments

今月はミット打ちが重点課題なのですが、先日もよくあるスタンダードなコンビネーションを叩きます。
  • ワン・ツー・ミドル
  • ミドル・ワン・ツー
  • 最後にくっつけて、ミドル・ワン・ツー・ミドル
単純に連攻でミット叩くと運動量多いしリズムがわかってくると楽しい。単発でしっかり叩けても連続した動きの中ではまたちょっと違うし、変に力むとリズムが悪い。そういう緩急がある。

さてパンチPとキックKとして最後にKPPK という四回打ったわけだけど、

K-PPKという区切りもあるし、
KPP-Kと区切ってもいいだろう。
もちろん一息でKPPKと打ってもいい。

同じコンビネーションでも人によって結構差が出る。それが素敵。
そういうものがあるから、ぜひ皆さんには意識的に打ち分けてみてほしい、と話した。

どこで区切るのか

どこで区切るのか? 区切るというかどこで緩急つけるのかて感じかな。同じコンビネーションでも緩急の付け方で雰囲気は変わる。
多少誤解招きそうですけど、大きく一息あけて最後のミドルてのも突然間を開けられるとかえって対処しづらくすることもできる。
戦いの基本は「兵は詭道なり」よろしく相手の裏をかくこと、相手の予想の範疇を超えることで、少林寺拳法でいえば虚ということになるだろう、

「ハイハイ、またさっきのコンビネーションね」

と寄り付かせたら、緩急を変える、というのはシンプルだけどとっても大事。
裏をかくと言うとども言葉は悪いのだけど、こういうやり取りはゲーム感覚で楽しいのでいくつか持っていると少林寺拳法はもっと楽しくなる。

法形間の連反攻の緩急には、自己の経験に基づいた自分なりのものを持っているのかが如実に出るのでおもしろい。そういう自分の拳法を磨いていってほしいと思います。

飛2連蹴でミット蹴

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某氏三級になったので天地拳4を。

飛二蹴連蹴ですけど、ずっと練習してるとジャンプ回数が結構な回数で良い運動量に。とりあえずミットを蹴ってもらいます。ついでにみんなで飛2連のミットです。

2連なのでいろんな組み合わせができると思いますが、廻蹴-廻蹴て特にむずい。といいつつもミットという具体的に当てる対象があるとたぶん誰でもすぐできる。モノ当てないでするとチョーむずいんだけど、物があるとカンチン。

やってみると簡単なんだけど、意外にできるということが味噌でみんな楽しくなっちゃう。

ちな写真は関係ないです。ミット持ってたので撮れません。。

10月の強化テーマは「掛り稽古」のあたり

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10月の強化テーマは「掛り稽古」でしたが、主に柔法の抜き技で行いました。

掛り稽古というのは一人受け立ちを置いて、残り全員で順番にどんどんと攻撃していくサーキットトレーニングのようなやつですね。あんまり細かく考えている時間は無いので考えるより動く、身体に覚えさせるための稽古です。

日によってさらにテーマは違いますが、例えばこんな感じに。

  • ランドタムに捕る
  • 捕る位置は指定しつつ前後左右に降る、ので、適時変化して抜く
  • 意地悪く持つ


等々かな。
特に2つ目がやりたかったのですけど、目指しているのはこういう感じ。やわらかく変化していく感じ。立ち技・抜き技だけなのでこんなにかっこよくやってる分けてじゃないですけど。いずれ柔法でもこういう感じでやりたいですね。



掛かり稽古は技の稽古(作る稽古)ではなくて術の稽古(使う稽古)ですので、多少雑でも、
  • (正しくやれば) 結構簡単に抜けるやん!!
  • (正しくやれば) 雑でも抜けるwww
みたいな経験を通して、「抜き」にたいする自信が付けば良いかなと思います。少林寺拳法の技はざっくりでも効果的です。


6月のゲスト主座「拳法部の普通のやつ」

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6月のゲスト主座は、都内の道院のSくんにお願いしました。
彼が茶帯のころから一緒に練習している仲で年末年始に筑波山にも一緒に行っています。まだまたぜ20代の元気あふれる好青年です。


なんとなく、学生時代の拳法部的なものを~てことだったのですが、すごくまっとうな、ど真ん中の少林寺拳法の内容で、ガッツリと良い稽古よい汗がかけました。

基本の中では、攻技-転回-攻技の組み合わせをたくさんやりました。

突き蹴りからすばやく展開して再度攻撃、という流れてはそれぞれの動きに癖が大きいと次の動作でもたついてしまいます。攻撃でおおきく前傾していたり足幅が広すぎるとか、そういうの癖をとっていくのに良さそうでした。

当日は体育館だつたということもあり、移動稽古もしっかりできました。広い体育室で移動稽古はとても気持ち良いものですね。体育室に空調があるので、グッと助かりますw

相対で「受け-反撃」のパターンもたくさんやりました。これはもうすこし身体に染み込ませてほしいので7月のテーマに近いものを設定するつもりです。

最後にライトスパーをサクッとこなして、あっという間の二時間でした。
みんな楽しく修練できました!!またよろしくお願いします。

今月のテーマ「各種当身、とか」

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今月は、当身一通りやります。
級拳士科目にもいろいろと、各種なんたらありますがそういうのから載ってないのもいろいろと。
少林寺拳法はいろんな部位を使います。そういうのは無事ユツとしても有効だし保健体育としても様々な動きを起こせるので、楽しく稽古できるものですよ。前に蹴るだけではなく、横に突いて後ろに蹴る。護身の術として複数方向に当身を出すのもまたいい運動にもなる。(天地拳356にみられるように、もともと少林寺拳法は複数方向、複数の敵を想定しています。)

同じ柔法するのでも複数の当身を思いつく頭の柔らかさ、体勢の自由さも大切ですし、使って楽しい、使って便利。そういうのが当身です。