法形演練の設計(予)

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 例えば若い学生さんと練習していて、「ローキックの守り方教えて下さい」みたいになったとして、じゃこんなかんじでホニャラホニャラして練習しましょうとなる。蹴られたらこう受けて返してね、となる。てな感じで進めるといい感じの実のある攻防練習になる。


なぜ法形演練がこの集中力でやれないのか?

そのノリその集中力で法形やったらすぐ強くなりそうやのに・・・

決まった攻撃に、決まった反撃する。という構造は一緒なのに、内受突しますよーてなるとこうはならない。なぜだ。法形演練の呪いなのか。開祖は「型ちゃうで、形やでぇ(意訳)」ていったのに、あれは何だつたのか。

法話の中で、「少林寺拳法は護身術なので習ったすぐ使える」とか「3ヶ月くらいすればー」みたいなのがあったと思うのだけど、現代の少林寺拳法からはそれは微塵も感じられない。


昔はもっと(いい意味で)雑にやってたんでは?

そんで内受突いうても、左右とか順逆とか細かいこと言わずどんどん混ぜてやってたんでは?自然と混ざるし、他使用得意不得意あってもいいので、とりあえず返せるようにする、とかね。


上のキックの動画、これ普段の少林寺拳法で再現したとすると。

対構になってー、入って蹴ってー、正確にここ蹴ってー、いや正確に、ここ以外蹴らないでー、こう受けて、いやここでこう受けてー、蹴ったら自由地脚下がりしてー退ってー、残心してー、あれよこれよこれもあれも

みたいになる。内受けやら運歩はうまくなってるかもだけど何故か強さは変わってないという妙。

そういうのも大事なんだけど。私は少林寺拳法の法形てあんまりそのように設計されていなてのではないかなと、考えてます。

詳しくは道院で聞いてね。




剣道から間合いの話

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改めて武道学会の剣道についての発表資料を見ていると、今日も夢とロマンが広がります。

元は決まり手の技術変遷を追った内容ですが、その中に「抜き技」と「返し技」の解説が簡単にあります。

抜き技

相手が出るタイミングで打ち込む。少林寺拳法的にはほぼ対の先

返し技

相手の攻撃を竹刀で受けてから攻撃。少林寺拳法的には後の先


ということです。
面白いのは間合いの記述があり、返し技のほうが近間だとしてあります。これは感覚的にはすごくわかりますし、改めて考えるととても面白い。


少林寺拳法と間合い

後の先で捕ろうと思えば、遠すぎるとしんどい。物理的に触れてるわけではないけど感覚的に相手に接しておかないしんどい。こっそり相手の行動を制限して相手の攻撃パターンを減らしておかないとなかなか対応できない。

対して、対の先は遠い間合いのほうが確かに気持ちやりやすい。遠いから相手がガッツリ入ってくる勢いあるところに合わせていく感じ。しっかり受けないでさっさっと反撃反撃。

まあこんなこと書くと達人みたいになってちょー偉そうだけど、私もそんな精度高くやれるわけではないです。何となくそういう傾向があるよね~くらい。もちろん例外はいくらでもあります。


返し技が増加している

剣道の話に戻ると、現代に近づくほど抜き技が減り返し技が顕著に増加している、としています。つまり一度受けてから返すパターンが増えているということです。剣道という一定のルールの中での話ですが、そのほうが有利だということが示唆されます。これは少林寺拳法にとってはありがたい知見です。

守主攻従は本当に技術的に有利なのか?これはいつも悩ましい問題です。
武術に限らず軍事などどこ見ても、自然界を見ても先手こそが有利なのではないか?まま、もちろんは少林寺拳法もあくまで後必勝(後手必勝ではありません)ですから、手を出してなくても先に捕ってるわけですけど。そう、上で言う「感覚的に触れている」て状態ですね。

戦争論のクラウゼビッツは、防御のほうが有利と言ってるようですがそれは現状を維持するならということですし、、、まぁこれについては長くなるので今日はここまで。
とりあえず剣道から、長く試合を続けていたら返し技が増えてるよん!!というのはなんとも嬉しい話じゃありませんか。

間合いの余談

少林寺拳法は基本は世間的な武術からして間合いは近い方だと私は思っていますので、後の先が好きな少林寺拳法はやっぱり近間なんだなぁとも思っちゃいます。
いや、少林寺拳法は遠いだろて意見もあるかと思いますが、伝統空手とか3mの間合い普通にシームレスに詰められますからね。体育館の端から端まで攻撃と足を止めずに出し続けられますからね。少林寺拳法はせいぜい1歩か2歩。守主攻従だからそういうもんです。
柔法とか五花拳にしても、適度に近くて(感覚的に)触れてるほうが良いですし、まぁ当然かなと。

当分、単演でも

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こんなご時世ですし、当分単演をやることになるかなと思います。
少林寺拳法は組手主体を標榜してきたので、誰とも合わず孤独にたんたんと鍛錬するのは苦手なんだなと今回改めて感じますね。また自粛が来ないも限らないので、一人でも鍛錬できるように稽古していくことは大切ですね。

単演といえば天地拳とか義和拳とかあの辺りですが、嘘かホントか知らないのですが西の某所ではそれぞれの法形をやる前に単独でやってたとか聞いたことがありーの。たまたま開祖が思いつきでやったのか継続的にやってたのか謎です。

単演はたくさんある

例えば試験にも出る龍王拳第一系ですが、もちろん二系・三系もあるわけです。龍王拳は(今教範見るとw)27まであります。もちろん剛柔合わせればわんさかあります。あるにはあるんです、試験に出ないだけです。

試験にないからやらなくていいとか、公式なものがないからよくわからないからとかは拳法を狭くしてしまうので私は嫌いです。我々は科目を追いかけているわけではありません。求道しているのです。なければ創作すればいいんです。
同じ様に天地拳3-6の相対もいろんな先生が創意工夫でやってます。大事なことはそれらを覚え記録することではなく、自分でも考えて構築できるようになることだと思います。たとえそれが他人から見て変なものでもいい。自分で考えることに意味があります。横浜大六天道院ではどんなにレベルが高くても自ら出たもの以外は評価されません。下手くそでもレベルが低くてもよいです。自分で絞り出したことを尊びます。拳禅一如とはそういうものだと思います。

いいじゃん、どうせ試験でやるわけでもないんですし。公式だと言って回るわけでもなし。好き勝手やってくれよ!!!


流水蹴の単演 例

たとえば月曜日に例示してってもらった単演は、仁王拳第一ですね。まぁ流水蹴のことです。3つやってみました。その場で適当に考えてたものです。

左前から、

  1. 流水受
  2. 蹴り上げ
  3. 順足鈎足して右で回し蹴り
  4. 蜘蛛足か十字足で下がる。
  5. 右前から以下繰り返しておわり


左前から、

  1. 流水受
  2. 蹴り上げ
  3. 左足で足刀(段蹴腹でも顔でも膝でもどこでもいいよ)
  4. なんちゃら退り
あとなんだっけ。
左前から、
  1. 流水受
  2. 金的蹴
  3. 右で上段蹴り上げ
  4. 順退り
みたいな感じですね。


あと外受突でも
  1. 右手 外受
  2. 左手 中段突
  3. 右手で受けから段突
  4. 後ろ体重にしつつ、左手て打上受
  5. 左足で蹴(蹴種の指定はあえてしない)
これなんていかにも拳法ぽかった気がしまするぅぅ。


大事なことは、覚えない・サッサッと忘れる。言われたらそれなりにすぐできることを目指し、すぐ思いつくようになることを目指しています。乱捕りしてれば適当に思いつくでようになります。
それなりでいいんです。ものすごく良くできた単演である必要はなく、むしろ多少不自然でもいい。対応力つくんで(本当)、乱捕りにも役に立つかも?(知らない)
ひとつの動機づけとして、ドリルとしてサクサクやれば良い思います。

構成同じでも人によってタイミングは異なります。それも見ていて楽しいし、少林寺拳法を学ぶ人間はクリエイティブじゃなきゃね。


地区センターの体育室が取れたときは、また錫杖伝でもやろうかなと。錫杖伝はリーチが長い。嫌でも縦横3倍で9倍の面積、ついでにちょっと大きく取って10倍くらい徒手より空間を食う。これってちちょうどコロナ対応距離でないかな!!!


「風格のある演武」三崎敏夫

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先日、「三崎先生のあの名文ちょうだい!!」と言われ。
また先日、道院修練中に演武の話関連で書こしでたこともあり、名文として名高い故三崎先生の文章をアップしておきます。某サイト用に15年くらい前にテキスト化したものです。昔テキスト化したものなので正誤あるかも。
昭和41年の文章です。「少林寺」「拳法」と称されているものは「少林寺拳法」のことです。 


「風格のある演武」三崎敏夫

新聞 『少林寺拳法』昭和41年1月10日  (20の1)

 (一)
 人の心程移り気なものはないあれを考えこれを考え常に散り易いものである。又今日程これが激しい時代はないであろう。
 これを修行することによって纏めるのが精神統一である。然らばどうしてこのうつり気な心を纏めるか。修行の方法には滝にうたれて思念するものや或は苦行するものその他楽行するものいろいろあるであろうが少林寺拳法程最高に適切なものは他にないであろう。それは心と肉体とが同時に修行できるからである。日本に於ける少林寺の名声は此の広く且つ深い精神内容と高度な技術これが今日の少林寺拳法を作り上げたのである。三祖僧粲大師も「動中の功は静中の功に百千倍する」と説かれている様に少林寺では此の精神統一を拳法という技によって錬磨する。幾千回幾万回錬りに錬り心の散らない一事集中の修行をするのである。これ程烈しいこれ程確かな人格修行はないと申してよかろう。
 我々は社会人である又すぐにも巣立って行かなければならない人達である。修行したことが即社会に亦日常の生活に役立つものでなければやっていることが大きな無駄である。社会が求めている人間になることが最も必要なことである。強くなることも大切なことの一つではあるが少林寺拳法に於てはこれは氷山の一角に過ぎない。社会人としての要素はこれだけであってはならない。
 正しい自己を確立することである。
 このことが理解された人の行う拳法は実に気品のあふれた拳法になる真に正しい立派な風格のある拳法を演錬したいものである。

(二)
 拳法は「礼に始まって礼に終る」と云われるが礼儀を離れて気品はない如何に乱捕だけに終始しても気品は生れないものである。然らば気品とはどんなものであるかと云われると容易に謂いあらわし難い気を花に譬(たと)うれば気品はその薫りのようなものではあるまいか気品は正しい心澄んだ気から自然に発する得もいわれぬ気高さにある三味の境地無念無想の境地に這りこんだ時ほど気品あるものはない。
 徒に勝敗に拘泥する時は品が悪くなる。私心邪念にとらわれて稽古に無理があるから自然に気品が添わないのである。そして相手を騙すことばかり覚えるものである。心も形も共に正しく互に相たすけるのでなければ真に正しい立派な拳気品のある風格をそなえた演武は出来ないものである。「心正しければ拳亦正し」というのも此の意味に外ならないのである。
 この気品のある拳法を修得する近道は先ず基本「かた」を充分にこなす様練習することである。即ち少林寺拳法の形は各種の技法を通じて霊肉一如自他共栄心形一致の妙境に達せしめんがための「みち」である。真剣なる組演武を見ていると本当に自分の心がすいこまれて行く様な気持になるものである。又真の形を修行して見ると乱げいこと異った特殊な境地が見つかり又拳法としての直接の目的以外に一種の芸術的感激さえ覚えてくるものである。想うに格斗技が出来上る以前にあっては心体手足の使用法はすこぶる幼稚であっていたずらに体力に任せて手を振り足を上げていたというに過ぎなかったであろう。これが必然的な要求の結果として心体手足を如何に使用すれば最も効果があるかということが考えられて遂にはその運用法を生ずるに至ったものである。現在使用されている形が成立される迄には祖師以来幾多の古人先輩が又名人といわれる人々が命を捨て骨身をけずり血をながして得た血と涙の結晶である。「前者の過ちは後者への試」労少なく功大ならしめる為に自然の理法に従った無駄の無い立派な形が出来上ったのである。勿論日本に於ける少林寺拳法は宗師家の労苦によって今日の様な高度なレベルになったことはいう迄もない。故に基本形を充分演錬せずして初心のうちより乱げいこのみに終始することは過ちの第一歩である。例えば土台や基礎の悪い所に家を建てるのと同様で砂地の上にどんな立派な材木を使い名工の手にかけて建ててもすぐ崩れてしまうが土台がしっかりしていれば少々古材を使って建ても曲らず崩れず立派に家は建つものである。形演練の時に注意しなければならないことは攻撃するものが正確でなければその形も不正確なくずれた無意味なものとなってくる。攻者と防者は自他共に一体とならなければ立派な形は生れない。一方が如何に上手であっても攻者と防者が別々の感じで動作をしては何にもならない。互に助け合い補足しあって形を演錬しなければ両者共に上達はしないものである。此の両者は一体となり打てば響き叫べば応ずる木霊の如く両者の心と心との間には目に見えない綱がたゆまずピーンと張られ一方の意志は以心伝心他方に通ずる様にならなければならない。攻者は突蹴を以て攻撃する場合に心の内で防禦側の構えを窺い何処かに隙はないかと心を配り防禦側の構えをよく見て遂に約束通り力を以て攻撃をする。防者は何処から攻撃の突蹴が来ても充分に防ぎ又反撃に応じられる様に準備して後攻撃して来た突蹴を防ぎ反撃する。形は約束に従って一定の形式と順序を踏むものであることは云う迄もない。が然しその他に隙あらば猛然と攻撃すべしそのうち自然と真の演武に近ずくことが出るものである。樗山子の「天狗芸術論」に「芸術は修錬を要す事和せず気和せざれば形従わず心と形と二つになって自在をなすこと能わず」といっている内に働くものが生気とぼしく形式的技術が巧妙と云うだけでは形を活用することは出来得ないのである。常に内に働くものが自由自在生気発らつとして活きた形でなくては乱捕にもいかすことは出来ないものである。(次号に続く)




新聞 『少林寺拳法』昭和41年4月1日 (20の2)

()
 私は生来不器用ものである。特に文筆をとるなぞはおこがましい沙汰の限りである。自分が自分を一番よく知っているつもりである。編集者はそれを考えてくれずに何か書けかけと喧ましく云う。あまり逢う度に云われるので前号に風格のある演武と題して一筆書いたところが編集局は稿の終りに「次号に続く」と書きたしてあった。私はあわててかけあいに行ったが一向に聞き入れて呉れない仕方なく又筆をとらざるを得なくなった。今日此の頃ではこうしているうちに次第に多少ともなれて書けて来る様になるのかもしれないと思うようになった。最初私が拳法を始めた時にもそうであった。先輩の先生方がやっておられる様な見事な演武が私にも出来るのか思った。然し又出来れば素晴しいものだとも感じたものである。恐らくどの拳士諸君もそうであると思うが拳士の大多数は皆この演武のもつあやなる雰囲気と素晴しい技術に魅了されて入ったものが多いと思う。あの飛燕の様な早さ流れる様な美しさ剛快なうごき正に一服の名画を見る感じがするのである。
 がさて新しく入って練習を始めて見ると分るが自分の手や足自分の五体我が五体であるから自由自在に動かすことが出来る筈であると思うのになかなか思うようにはならないものである。円滑融通無礙玄如神速思いのままに演武することなどはどうして容易に出来るものではない。
 練習をしていると次第に自分の身体が我がものであって実は我がものでないのだと気がつくそして我がものとするまでにはかなりの時間がかかるものである。我が手足我が四肢五体でありながら修練工夫を積まなければ我が思いのままに動かぬと同様に我が心も亦容易に我が思いのままにはならないものである。人の一生はその人の心のあり方によって決まるといわれている。少林寺の教えの中には管長先生の示された大道がある。この道の中には宗教あり哲学あり倫理あり道徳あり宇宙及世界の動きがある。その中に又政治もあれば経済のうごきもある長上に対する道同輩に対する道後輩に対する道そして正しい力を得る拳法がある。こんな立派な修養道は他にその例を見ないものである。古代の仏像や壁画を見るとき道を悟る一手段としての体の運用を表わした仏像や壁画を見ることが出来る。中には武器を持ったもの迄ある.昔中国に古きを尋ねて新しきを知るという言葉があるようだがこの少林寺拳法はまさにその言葉の通りである。少林寺に於てはこの道を通じて正しい人間形成を又社会で役に立つ人々を送り出しているのである。本人にとってはプライドであり社会生活をする上に最も必要なことでもある。「力の伴わざる正義は無力なり正義の伴わざる力は暴力なり」昨年だったと思うがNHKの「世界の旅」に出た或印度の一家庭の中に主人が三年間お寺に入って修行するというのがあった。その間の留守をけなげに一人の娘が働いて家族全体を守るという場面があったが南方の仏教国に行くとこういうふうにして国民の大部分が修行するという日本の国もそうありたいものと思う。話か大分それたようであるがこのことは又稿を改めて述べて見たいと思う。


以上です。写真は該当記事に掲載されていたものです。
三崎先生とは多少のご縁があり初段時に一度だけ仁尾道院専有道場でお会いしたことがあります。先生と私の名前入り色紙をいただきまして、今でも大事なお宝です。色紙は専有道場に額に入れて置いてありますので御覧くださいませ。



50年史(第一部P.265)には明確に書いてあるのですけど、「風格のある演武」てのは少林寺拳法の風格のことではなく「自分の味がだせる風格ある演武を目指して」であります。
>やがて私は、基本を重視しながらも、派手だけではない何か、「風格ある演武」というものを追求するようになりました。その人の考え方や教養、人柄など、いろいろなものがにじみ出る「味」。それが演武に表現されていないとだめだ、と考えるようになったんです。
そうだよね、そうでなくちゃいかんよね。 だから私は下手な少林寺拳法が見たいんだ。