教範ななめ読み2 抜身技

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 三鼎三法二五形の抜身法てやつ。いまいち矢筈以外は認知度が低いあれ。

錣とか草陰、吊鐘とかは世間話で聞いたことがある人も多いと思うけど、これらは抜身という科目だったのか…という気持ちでいっぱいです。


矢筈抜身(初版と第2版)
羽交抜身(初版と第2版)
袈裟抜身(初版と第2版)
風鈴抜身(初版と第2版)/風鈴攻抜身(79)
錣抜身(初版と第2版)/錣攻抜身(79)
甲攻抜身(初版と第2版)
佛骨抜身(初版と第2版)
吊鐘抜身(第2版)/鐘攻抜身(初版と79)
草陰抜身(第2版)/草陰攻抜身(79)
玉骨抜身(第2版)
両合抜身(初版と第2版)/両合攻抜身(79)
独鈷抜身(初版と第2版)/独鈷攻抜身(79)
三陰交攻抜身(79)
膝当抜身(初版)
足抜身(初版と第2版)、現在は龍王拳

初版は12技、第2版は13技が具体的に掲載。
膝当抜身は初版にのみある。


79年版では、掲載されている五段科目表に記載がある。ただし草陰攻抜身と三陰交攻抜身に関してはー、
五段試験科目には厳密にはなく、草陰攻と三陰交攻がある。

直後の「五段科目(除演武形)」には草陰攻抜身と三陰交攻抜身があるので、一連の抜身法の掲載順からして、これはおそらく五段科目表側の記載が誤記で、抜身表記が抜けているだけだと思う。教範ではよくあることです。
五段科目表の草陰攻と三陰交攻は、圧法科目ではなく抜身科目と考えるのが無難ではないかな。

教範ななめ読み1 段蹴、龍の形

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段蹴

蹴り方による名称において、ピンクの副読本から2019年の読本に至るまで二段蹴となっているではないか…

教範30から教範79に至るまで一貫して段蹴という記載であるし、二回・三回蹴れとも書かれている。どうして二段蹴と記載されるようになったのだろう?


龍の形

教範79にある龍の形の記載だけど…(五段科目表)
>>竜の形単演(逆小手以外とす)
て書いてありまして。逆小手以外も龍の形と呼んでいることになる。

てかむしろここ以外に龍の形の記載はなく。もちろん他の単演が入っている単独基本法形に龍の方は入っていません。どこにも存在しない。大会などの技術組織図でたまに単独基本法形の中に天地拳や義和拳と並んで龍の形が記載されている場合があるけど、厳密には龍の形は単独基本法形ではなさそうです。
龍王拳か龍華拳あたりの、なんか単演やってみー的な逆小手限定ではないのを指示する言葉の響きだったのかも知れない。

ただし現在は読本で「龍の形、逆小手単演をする。」ときっちり指定されているので、現在では間違いなく逆小手のことです。ただしくどいけど79年版教範にはそのような記載はありません。


メモしとかないと自分でも忘れるので、今後メモ代わりにブログを書こうと思う。

佐藤一斎 塾規三条

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ありがとうGemini!! 

『言志四録』の佐藤一斎。


塾規三条(佐藤一斎) 「俗間梵余」より

1. 原文

立志

諸友学問心掛けられ候趣意は、第一倫理を弁え、君子に成るべきためにて候。ここに志なき輩は、仮令(たとえ)万巻の書を読破候ても、学問心掛け候とは申がたく候。曲芸小技に至るまで、志なくして成就する事あたわず候。況て(いわんや)倫理大学問ウカト出来候義決して無之候(これなくそうろう)。其志さえ立候えば、書籍読み候事も、此志の内にこれあり候。誠に入学第一の義にて、かりそめに思われ間敷(まじく)候事。

励行

学者日用の間、逢う所触る所、朝昼暮夜行を離れ候事これなく候。兎(う)につき角につき能(よ)く誠実に心を尽し、軽薄浮躁の態なき様次に心掛けらるべき事に候。朋友会合の際は言語の上尤も(もっとも)緊要にて候。朋友は互に益を求め仁を輔(たす)くる為に候。然るに無益の雑話に時を費やさば、益なくして損あるべし。雑話の上より自然と不遜にもなり、争端を起こす事にも及び候。箇様(かよう)の義一切無之(これなき)様に心掛けられべく候。且つ少者は長者を敬し、長者は少者を愛すべし。仮令(たとえ)少者たりとも業の勝れたるものは、業の先輩なれば、不敬なき様に相談あるべし。先輩たる者も其長を挟(さしはさ)み、後進を軽侮すれば、やはり長者の徳なきゆえに、後輩にかわる事これあるまじく候。大抵朋友の義は兄弟に等し。其親愛の心より切磋あるべく候事。

遊芸

文学の事は、経説たりとも芸に属すべし。学問中の一事にて候。厳に課程を立て、其間に優遊涵泳(ゆうゆうかんえい)すべき事尤(もっとも)もに候。もし実行なくして読書作文のみに流れ候ては、何程経説に委(くわ)しく、諸子百家に渉り、詩文を巧に致し候ても、技芸にかわる事これなく候。書籍を離れ候ては其余常人に等しかるべし。却て世人より譏(そしり)を招く事数多これあり候。然れば実行ありての読書にて候。凡そ先輩に疑を質す。生きたる書を読むに同じ。書を読む事は、死したる先輩より訓(おしえ)を受ける也。されば経義を講明するに当りては、先輩老人に対し、まのあたり質義する心に成り、己を虚(むな)くし、其語を身に引当てて沈潜すべし。軽卒躁妄(けいそつそうもう)なるべからず。能(よ)くかくの如くなれば、読書も亦実行の一にて候。以上。

三条の約、諸友ともに確守いたすべき候。背馳(はいち)これなきように心掛けられ、尤(もっとも)に候事。


2. 現代語訳(現代文書き下し)

一、 立志(志を立てること)

皆さんが学問に心を志す本当の意味は、第一に人の踏むべき道(倫理)をわきまえ、立派な人格者(君子)になるためです。ここに志のない者は、たとえ万巻の書物を読破したとしても、学問を志しているとは言えません。芸事やちょっとした技能でさえ、志がなければ成し遂げることはできないのです。

ましてや、人間の生き方という大きな学問が、うっかりいい加減にできるわけが決してありません。その志さえしっかり立っていれば、書物を読むという行為も自然とその志の中に含まれてくるものです。

これこそがまさに、学問に入るための第一の基本であり、決してかりそめ(おろそか)に考えてはならないことです。


二、 励行(実践に努めること)

学ぶ者が日々生活する中で、目にすること、触れること、そして朝・昼・夕・夜のいつでも、自らの行い(実践)から離れる瞬間はありません。どんな些細なことに対しても、しっかりと誠実に心を尽くし、軽はずみで浮ついた態度をとらないよう、常に心掛けるべきです。 

友人同士が集まる際は、特に言葉遣いが最も重要です。友人は互いに成長し合い、仁徳を助け合うためにいるものです。それなのに、中身のない雑談に時間を費やしてしまえば、利益がないばかりか損害を被ることになります。雑談を続けていると、自然と傲慢になり、争いのきっかけを作ることにもなってしまいます。このようなことが一切ないように心掛けねばなりません。

また、年若い者は年長者を敬い、年長者は年若い者を慈しむべきです。たとえ年少者であっても学業が優れている者は、学問における先輩なのですから、失礼のないように相談し合うのがよいでしょう。先輩である者も、自分が年上であることや経験を鼻にかけて後進を軽蔑するようでは、年長者としての徳がないということになり、後輩の手本となることはできません。

およそ友人同士の交わりは兄弟のようなものです。その親愛の心を持って、互いに切磋琢磨すべきです。


三、 遊芸(学芸に親しむこと)

文章や文学に関することは、たとえそれが聖賢の教え(経説)であっても、一つの「技芸」に属するものであり、学問全体の中の一部にすぎません。厳格にカリキュラム(課程)を立て、その合間に心ゆくまでゆったりと深く味わう(優遊涵泳する)ことがもっとも大切です。 

もし実践(実行)を伴わずに、ただ本を読み作文することだけに流されてしまっては、どれほど聖賢の教えに詳しく、あらゆる思想書(諸子百家)に通じ、巧みな詩文を作れたとしても、それは単なる技術や芸と変わりありません。本を離れてしまえば、それ以外の点では普通の人と変わらなくなってしまいます。それどころか、かえって世間の人々から非難を浴びる原因になることすら多くあります。

したがって、学問とは「実践があってこその読書」なのです。 およそ、先輩に疑問を正すことは、生きている書物を読むのと同じです。また、書物を読むということは、亡くなった先輩から教えを受けることと同じです。ですから、聖賢の教えを解き明かし学ぶにあたっては、目の前に先輩や老人がいると思って直接質問するような気持ちになり、心を虚しくして(先入観を捨てて)、その言葉を自分の身に引き当てて深く沈思黙考すべきです。軽はずみで落ち着きのない態度であってはなりません。

このようにしっかりと読書に向き合うことができれば、読書そのものもまた、立派な実践(実行)の一つとなるのです。以上。

これら三条の約束を、塾生の皆さんは共に固く守ってください。これに背くことのないよう心掛けることが、最も大切なことです。


参考 『言志四録1』 川上正光 著より



「運用法ルールてどう思いますか?」

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気心の知れた他流派の方から、

「運用法ルールてどう思いますか?」と聞かれることがある。(複数回)

私の運用法については「あり」なので、こんな時は「いいんじゃないですかね」て言う。

私が入門した頃は「少林寺拳法は乱捕りしない」流派でした。仕方ないので乱捕り研究会を作ったり、他流オフを開催たり、仲間内で他流試合に出たりしてみました。なので現在も横浜大六天道院は興味があればこれらはどうぞどうぞスタンスです。
関東圏なら月1くらいで空手のオープン大会があります。いろんな団体が主催してるのでそれぞれルールが異なりそれが楽しい。当時少林寺拳法に決まったルールがなかったので気兼ねなくいろいろ体験できて良かったと思っています。

運用法ルールは無難な 「ポイント制」

で少林寺拳法的に運用法ですが、格技にはいろいろルールがあって分類するとおおよそ3つ。

  1. KO制のルール
  2. ポイント制のルール
  3. (自由攻防しない)
1と2、2と3の間には大きな差があります。めちゃくちゃ大きな隔たりがあると思って下さい。現行の少林寺拳法はぎり2ということになる。

私の認識ではKO制はリスクが大きい。怒られかもだけどアマチュアはするべきでないとすら思っています、実践性落としてでも。ましてや「人づくりの団体」とか「拳法馬鹿になるな」みたいなこという少林寺拳法がKO制をする必要があるのかと思うので、ポイント制たる運用法は正しい選択だと思います。

運用法ルールは伝統空手のルールにかなり似ています。私の認識は伝統空手に似せた、パクったというよりは、現代人に必要なとこを考えるとどうしてもこうなると思います。これを何十年も前からやっている伝統空手がすげぇ、てことです。

伝統空手においても、伝統ルールができた時、また今でも賛否あると聞きます。でも長く続けてきたことで、伝統ルールは間違いなく空手の大事な一部になった。これから運用法はどうなるのでしょう。

余談ですが伝統空手はネットでは寸止め寸止めと馬鹿にされること多々ありますけど、高校大学を空手の推薦で進む人たち、いわゆる選手クラスはめちゃくちゃ強いです。見る力、判断力、対応力がまさにトップアスリートのそれ、一般とは一線を画す驚異的な強さです。彼らの突はコントロールして止めてるのであって、我々に5cm踏み込み撃ち抜くことは容易にできる人たちです。選手クラスは精錬されてます。


運用法ルールと少林寺拳法

前述のとおり、私が入門した時は運用法ルールは有りませんでした。団体として規定ルールは有ったほうがいい。無いと自由攻防しなくなります。多少ルールに疑問があったとしてもやらないよりは自由攻防したほうがいい。そういう現実的な落とし所が運用法ルールだと思います。これが「あり」という意味です。

格技のルールは実践性と安全性のせめぎ合いで、実践的なものは危険度が高く、安全すぎるものは嘘くさくなりがち。
武術諸派の歴史とは、常にこの実践性と安全性の模索と言ってもいいでしょう。実践性の薄い訓練は兵士に施しても仕方ない。でも安全性が低く訓練で怪我ばかりしていたら軍備として問題がある。まさに実践性と安全性は人類に常に抱える課題でしょう。
真剣はまずい木刀にしよう、いやいやまだ危ない袋竹刀だとかね、そうだ小手を打てるように分厚い手袋しようとかね。近代に入ってから徒手格闘はもっぱら顔面攻防ですね。グローブ、面の開発、寸止め、顔無し、いろんな模索が有り今でもそれは継続されています。みんなまだまだ、まだまだ探している。

そんな中、誰もが運用法ルールが少林寺拳法に最適なルール、技術を活かせるルールだとは思っていないと思います。私はそう思ってる、1つの落とし所だが、このルールが全てではない。

いろんなルールが有る中どれをやるべきなのか。どれが少林寺拳法の技術体系にマッチするのか?  私の考えは、1つのルールでは駄目ということです。幅広くやればいい。それは他流試合でいろんなルールでやったことからもそう感じています。
普段言っいるじゃないですか。勝ち負けに拘るなー、みたいな。そうです拘ってないんです大して(これも問題だが)。だからこそ色んなルールを楽しめる土壌が少林寺拳法にはあるとも言えるのです。

色んなルールを楽しめばいい

お勧めはね、それぞれのルールで最適な動きを模索する。これが楽しい。そのうち自分のやりたいこと、スタイル、ドクトリンが見えてきます。剛法だけじゃない柔法もしたい。いろんな可能性が少林寺拳法にはあるはずです。

我々少林寺拳法はもはや後進だと思わなければならい。どうやったら強くなれるのか、どうやったら強く突けるのか、どうやったら間を盗めるのか、そういうトライアンドエラーが他所で何十年も行われる中、我々は「乱捕りはするべきなのか?」という議論に費やしてしまった。何十年も遅れているという事実を直視して、どんどん取り組むしか無いのですよ、少林寺拳法は。

だから 運用法ルールはありです。やりましょう!!

少林寺拳法と「気」

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 武術て精神性と結びつきやすいのでスピリチュアルと相性がいい。これは本当です。そしてたまに聞かれる「気てあるの?」ですが、まぁあります。



漢和辞典で「気」調べると。

調べますとね。最低五項目くらいあります。項目も多いし、それぞれに統一感のない項目…「気」というのは色んな意味があってー、

あなたが部屋を片付けているとしましょう。これは使うもの使わないもの、秋に使うもの、あの時に使うもの、これは大事なもの、色々分けていきますね。その中でどこに入れておこう?というものが必ずありませんか。とりあえず分類できないものBOX、それの言葉版が「気」という概念です。なので曖昧で何かわからないもの、なのは必然なんです。

昔はわからなかったけど今はわかった事もたくさんあります。電気とか磁気とか、空気とか、いかにも「気」という言葉がついているものもあります。でも依然としてわからないものはあるし、分類しにくいものはあります。


横浜大六天道院では「気」という言葉は使いません。

解説するうえで使いません。上述の通り言葉の意味が広く、お互いに同じ概念ではない可能性が高い曖昧な表現となるため、解説には使いません。

ただ気をつけろとか気持ちよく投げるとか、そういう一般的な言葉の範囲では無理に避けることはないです。

後は意識だけ撃とっくみたいな表現はありますね。ストレート出す前にジャブを(物理的には出してないけど)意識の上では撃っておく。ちゃんと意識の上で出してると相手が釣られてストレートが当たりやすくなるみたいなのはあるので。打撃でも投げでも。「スタンド攻撃」と呼んでいます。




武術と気

ただ相手に触れるずに投げるとかはあります。状況が揃えば。状況を作るというのも戦術の内というのも確かです。ボクシングやサッカーの試合中継で聞いたことはありませんか? 「自分のペースで戦えていますね」というのを。

長い年月を掛けて門下生の感度を上げるというものもあれば、数時間のセミナーで醸成する人もいます。昔の2ちゃんで有名だったHさんは「三時間あれば誰にでも合氣を掛けられる」て言ってましたね。

自分の行っていることに一般性があるのかどうか、知らず知らずのうちに身内のみで有効な技術となっていないか。これはどの修練者も常に気を配るところではないかと思いますね。とりあえず他流派スパーにでも行くのが若い人はいいでしょう。

相手を術中にはめていくのも戦いの内ですよ。そういう中で、相手を上手く操るというのは確かに存在します。さらに言えばすごく短時間でそれを達成できる人もたまにいます。なんならプロの世界の勝負こそ、こういう繊細な部分が大事になってくるのかもしれません。なので私はできませんが、これも武術の内だと思いますよ。

これらは人間の仕組みなのかバグなのか、面白いのは確かです。でも多くの人には短期間でそれを用いるのは困難なので、試合とか襲い来る暴漢対策としていわゆる「気」は良い選択ではないと私は思います。

でも有るか無いかと言われればあります。