演武について1

BY ライデン IN No comments

昨日の話、メモっておこうと思う。

少林寺拳法にとっては演武はとても大事な修練の一つで盛況にやってます。
きのうB氏と話していて、厳密に言えば親子演武とかは脚色があるので技術的にはちがうところもあるし、最近あった男女の部では「女性が最後には抑える側に固定」はいろいろ意見もあるとかまぁそんな話を。

男女の部のについては、女性側から賛成も批判もあるとか。
賛成する人は、やはり男女の体格差がシビアなのでそうでもしないと実際つまらなくなることがあるらしい。批判的なに人は逆に、シビアだから鍛えて追いつこうとするべきでシステムでそれを達成してもしかない、ということの模様。

もともと演武の武的要素てのは大事なもんだけど、じゃあ純粋に力いっぱい殴り合えばいいかというとそうだろうか。そんなことしたいなら試合のほうがよい。そうではなくてあえて演武てのをいろんな諸派がやるのには意味がある。

話はそれるが、試合でもやっぱりルールは今でも諸派が模索していてより実践的?実戦的?というか各流派の目的に応じたルールが日々でてくる。例えばハイキックを使わせたいから、ハイキックだけポイントを2点にするとか、背刀を使わせたいので実際正拳よりもダメージ少なそうでも加点対象とするとか、そういう工夫が日々ある。
実戦的という不明瞭な言葉の行き着くところはノールール的なものが一つの行末になるけど、極端に言えばギリシャ・コロッセオの死闘とか漫画の地下闘技場てやつか。実際ルールのゆるい試合は見ていて面白くない。ただ凄惨なだけでみてて辛くなる。


技術的にはボクシングのように絞ることで精錬されるものが多いので、やはり諸派が目的に応じてルールを設定するのはいいことだし、現代社会とか安全面でも必要なことだ。

ラゥェイとかすげぇと思うけど、やっぱり見てて辛くなるとこも多いし、技術的にはキック・ムエタイのほうが精錬されてるかな?と感じることも多い。国内の素手で顔面含めて殴り合うのも私はあまり楽しく見れない。



話を戻して、そういうなかで演武を考えると、まぁ口汚く言えば「やらせ」とか「演じる」部分があるのは必然となる。演武で何を見せたいのか?てことだね。演武の「演」は「演じる」というか「範を示す」て意味なので、外客に示すもの、先達が後輩に示すもの、子供が日々の成果を親に示すものまぁいろいろあるだろう。特に先達が後輩に示すてのが大事かなと思います。

ただ男が力いっぱい女を殴ってる演武とか面白くもないので、B氏は「男は精細な技、女は勇壮さ」とかでいいんでないのという。そうよね。

少林寺拳法でいえば、金剛禅思想の表現てのが一つのテーマなので、羅漢錬拳図みたいな様々な人が和気藹々と修練に励むようなのを表するのは悪くない。演武で何を表現したいのかてのが明確であればもっと、演武は楽しくなると思うね。


というか演武て本当に難しい。




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