先日の入門式後に若い方が入門されました。若いし、キックボクシング経験者なのでとっても身体が動きます。これは楽しみがまた増えてしまった。
開祖が少林寺拳法を作る際に参考にしたリストの中にボクシングという項目がありますが、それを差っ引いても少林寺拳法は現代格闘技ととても相性がいい、と私は思う。
徒手格闘はコンビネーションの世界、飛燕の連攻や多撃必倒といわれる少林寺拳法の技術はまさにそれだと思います。
キックの経験はすべて少林寺拳法に役に立つでしょう。キックで学んだことをすへでそのままに少林寺拳法を学ぶことできると思います。キックの経験を活かしてほしい!!
少林寺拳法の技術はとっても幅広い。他流の方と経験すると、そうたとえば「空手てすごいなあ」て思う。でも同時に「やっぱり少林寺拳法もすばらしいなぁ」と思える。また少林寺拳法が好きになる。そういう懐の広さが少林寺拳法にはあるんだなぁ。
もともと何かを学ぶというのは自分の技術、見識や可能性などを広げていくことだと思います。学べば学ぶほど狭く固定的な見識になっては学ぶ意味がありません。
これが少林寺拳法でそれは少林寺拳法ではない。私はそういうものを恐れます。
先日の武道学会で「嘉納師範の著作に、「ボクシングは柔道である」」という記述があると知った。さすが嘉納先生。横浜大六天道院でもそのようにありたいね。
おおよそ、禅にもそのようなところがある。禅を学ぶと何か新しいことを学ぶと言うよりも、これまでのなんの関連もないと思われていた個々の事象、経験がどんどん紐づけされて一連の関連性を持っているかのように思えてくる。これまでの経験に一切の無駄などなかったのだと思えてくる。
そういうふうになると、自分の人生をとても肯定的に捉えることができるようになり、自信も湧いてくる、こともあるよん。
うん、廓然無聖なりや。
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